世の中から悪人がいなくなれば、人類は滅んでしまうという問題。

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遠い未来の話です。

人類は世界的な食糧難に見舞われます。

全ての人間には平等、愛、正義という素晴らしい概念があります。

争うのは良くないので、みんなでわずかな食料を分け合うことにします。

極端な例ですが、1日に3個の固形栄養食を、10人の人間で分け合う過酷な生活が始まるとします。

愛と優しさを持ち寄って、空腹を耐え忍ぶんです。

どれくらい、私たちは生き延びられるでしょうか。

あっという間に、全員そろって飢え死にしそうです。

だけど、もし、この10人の中に1人でも、愛のない個体がいて、

「他の9人を殺せば、栄養食を1日3個、食べられるじゃあないか」

と思考し、その通りに行動したなら。

ちょっとだけ、そいつは他の個体より長生きしそうな気がするんです。

そしてその個体こそが、人類の遺伝子を1日でも先の未来へ残せる可能性なんだと思うんです。

現代社会に当てはめれば9人を殺した1人は身の毛もよだつ犯罪者だけど。

人類にはどうしても1~2%ほど、そういう人間がいて、彼らは生存戦略的に必要な多様性の一つなんだと思うんです。

善とか、悪とか、そういう話じゃないんです。

なんというか、サイコパスでなくとも、人には悪いスイッチみたいなのがあると思うんです。

おなかが空くとイライラする。

寝不足になるとイライラする。

不安になるとイライラする。

とか、体が危機を感じて、その悪いスイッチをONにして、危機を排除しようとする本能のようなもので、

そのイライラがあるからこそ、人は生き延びてきたんだと思うんです。

おなかが空いてイライラさせれば、攻撃的になって、食糧確保に見境がなくなり、生き残る率が上がったとか、

寝不足や不安も、攻撃性を増して外敵の排除に務めさせて、周囲の安全を確保して休息を取らせようとか。

上記の10人の食糧問題も、イライラさせることによって、食料を奪いやすく、争いを起こしやすくして、

より強い個体が生き延びれるような、そういう競争を起こすことができると思うんです。

誰もが、そういうスイッチを持っているんじゃないかな、と思うんです。

つまり、環境さえ整えば、人は優しくもなれるし、残虐にもなれる、そういうスイッチがあると思うんです。

あなたは、「自分はまさか、人を殺したりしない」と思います?

 

 

ある男が子どもを虐待死させるんです。

その男は自分の子どもを殴って殺した。

何故そんなことを?

「目が合った。その目つきが気に食わなかった」

この男はつまり、「目が合うと人を殴る」という特質を得ていたようですが、どういう環境を用意すれば、その特質を別個体に再現させることができるでしょうか?

「目が合うと人を殴る」は言い換えれば、「目が合うとストレスを感じ、そのストレスを排除するべく反応する」です。

人間はストレスを与えられた際に、排除できる場合は「怒り」を感じて攻撃行動に、排除できない場合は「恐怖」を感じて距離を取るべく逃走を選択するとして、

後はじゃあ、目が合ったときにストレスを感じるよう学習させればいいんです。

どんな環境において、どんな学習が必要でしょうか。

人と目が合うと電気ショックを与えられるとか、目が合うと食料を取り上げられるとか、マウスのような実験的環境ではなく、

現実的に何か、人間の生活する環境下でこの個体は、目が合うことと同時に、ストレスを与えられてきたはずなんです。

 

簡単に思いつくのは、まぁ、目を見ながら、殴れば良いと思うんです。

パブロフの犬はエサを与えられる前に鈴の音を聞かされていて、やがて鈴の音とヨダレの分泌が条件付けられたように、

目を見ながら子どもを殴れば、やがて目が合うだけでストレスを感じて身構えるようになる。

虐待が世代間で引き継がれるのは有名な話なんですが、この男は自分の子どもにしでかしたことと、似たような目に遭ってきたのでしょう。

この場合、個体そのものは特別でもなんでもなくどこにでもいる人間で、環境がちょっと特殊だったと思うんです。

親、時代、土地、遺伝的要因などの環境を生まれてくる子どもが選択できるかは、

「サイコロで1を出したやつは死刑なので1を出さないように気をつけてください」くらい無茶な注文です。

あなたが同じ環境に置かれたとして、あなたはその環境下で適応せずにいられるでしょうか。

ほぼ毎日、何かの理由を付けて親に殴られて、「人は目が合うと殴ってくる」と学習したなら、

外ではまるで目を合わせない怯えた子どもになるだろうとして、

友だちもできず、ひたすら誰に対しても怯えて攻撃的になるか、逃走する毎日か、

やがてその環境下で尚死ぬことなく正しく適応して生き延びて大人になったあなたは、

だが、鈴の音を聞いてヨダレを垂らす犬の如く、目が合った子どもを反射的に殴ってしまう。

「目が合った。ストレスを感じた。そのストレスは排除できる弱者であった。だから、殴った。子どもは死んだ」

ニュースは駆け巡り、あなたの首にはロープがかかる。

――なんて悪いヤツだ! 人でなしめ! 死刑でよい!

あなたは罵声を浴びせられる。

あなたの人生は終わるが、振り返ってみて、幸せだったろうか?

あなたの人生のどこに努力によって覆せる要素があっただろうか、という問題なんです。

家庭環境がたまたま劣悪で、そこに適応したせいで、社会に出て適応できずに排除されるんです。

サイコロで1を出したから、死刑でもいいわけです。

まぁ、実際はあなたもぼくも、サイコロで1は出さなかったようだ。

運が良かった。

ただ、事実、サイコロで1を出した子どもは今も現実にいると思うんです。

かつてサイコロで1を出した子が親になって、サイコロで1を出した子を現在、虐待しているんです。

その子は今もその環境に順調に適応して、友だちもできず、家に帰っても安全はなく、学校にも安全はなく、

ただひたすらに反社会的な学習をして、10年後、陰惨な殺人事件を起こすんです。

そして、ぼくたちはその子どもを殺すんです。

 

人間は社会性があるとして、その社会性を誰から学ぶかといえば、大体は、最初に親となる存在から学ぶんです。

親に食料を与えられ、安全を与えられ、愛情を注がれ、

誰かに奪われる恐れもなく、誰かから奪う必要も無いと学習するんです。

ところが、親が食べ物を与えず、泣いても相手せず、子どもを虐待すると、

「常に危機がある。攻撃性を高めよう。そうして自らを脅かす敵を排除させて、安全を確保する。

敵か味方かを一々吟味してる内に殺されるぞ。全て敵だと思い、排除か逃走に務めよう。

この危機的環境下での遺伝子の断絶を防ぐため、性欲を強めて強引にでも繁殖活動をさせよう。

多数の次世代個体に遺伝子を乗せ替えるのだ。一個体を集中的に保護する戦略ではなく、多数個体にリスクを分散させよう」

と生き残るためのスイッチが入るんじゃあと想像するんです。

暴力的で性欲が強い、絵に描いたような無責任な悪人になると思います。

でも、そっちの方が、動物的に正しいと思うんです。

 

犯罪者は可哀想って話じゃないんです。

別に厳罰化して死刑ビシバシしてもいいと思います。

それはだって、生存競争の一種だと思うんです。

テリトリーに侵入してきた別個体にストレスを感じて攻撃するのをおかしいとは思わない。

群れをおびやかす個体を見て、排除しようとする動きが起こるのをおかしいとは思わない。

ただ、決してぼくたちは正義のために殺しているのだとは思わない。

様々な環境に適応してきた個体同士がどうしようもなく殺し合ってるんだと思うんです。

この世には正義も悪もなく、ただ置かれた環境に適応してきた個体がいるだけなんです。

自分と意見が合わない、おおよそ理解できない行動をする人も、

きっとその人の生きてきた環境、親や、思想、経済状況、遺伝子、時代、色んな要素に適応しながら、

生きていく上で都合の良い物を選択して、

現在の自分として行動しているんだろうなって話です。

飼い猫が人に懐き、野良猫が人を見て逃げるとしましょう。

飼い猫は「人は安全である。エサを与えてくれる」と学習した個体で、

野良猫は「人は自分よりも体が大きい。自分を見るとちっちっと舌を鳴らす威嚇音を発し近づいてくる。やばい。こわい」と学習した個体だと思うんです。

ところで、飼い猫は「正義」で、野良猫は「悪」なのでしょうか。

ぼくにはどちらも与えられた環境に正しく適応した個体に見えるんです。

あなたも、もしも、何か、他の人とうまく行かない、とか、社会的に上手くいかないとか、

そう言う悩みで、他人だけでなく、自分自身を責めてたりしたら、

ただ単に、生きてきた環境下で自分が適応してきた結果であって、

善悪があるわけじゃあないって考え方も、まぁ、おすすめです。

 

あなたは、悪い人じゃあないし、

そして、あなたは、善い人じゃあない。

善い者、不幸な者はいつか報われるとは限らないし、

悪者がおいしい思いをして、不幸な者が不幸なまま終わることだってあるんです。

ただ、どんな環境に適応してきたのか、そしてどんな環境に適応できるのか、それが問われている。

適応できていないのであれば、改めて適応できるよう戦略を柔軟に変えればいいだけです。

まぁ、Who is the predator? はそういう作品です。

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コメント

  1. nul より:

    病気だなあんた
    そういう甘い考えが今の混乱した世の中を作り上げたんだよ
    うるさい事は言わないからもう少し考え直してみろ。

    1. かぼちゃ より:

      あわわわわコメントありがとうございます!
      結構まじめな記事書いてもあんまり反応なかったのでブログもどうかなぁと思ってたのですが、
      こうしてコメントいただけて光栄です!!

      病気という表現はさておき、ちょっと人とズレた意見かもなぁとぼくも理解してます。
      大丈夫です。健康!

      ぼくも難しいなぁとも考えるんです。

      人間の最終的なゴールは何なんだろうか、そして、そのゴールに向かってどういう道を辿るべきか、って考えるんです。
      ぼくの考えるゴールは「人類史を少しでも長く維持する」です。
      そして、そのためには多様性が必要なんだ、そして、その多様性は競争を発生させる、と諦めています。

      「今の混乱した世の中」という言葉から察するに、昨今の社会的な痛ましいニュースを見て胸を痛めてらっしゃるのだろうと思います。
      ぼくも悲しいです。
      あるいは、「世の中を混乱させる人間」を淘汰するのも一個の戦略、思想として、ぼくだって正しいとも考えます。

      ただ、「混乱」という表現ではあっても、別の見方からは容赦なく「淘汰、競争」なんだと思っています。
      ある戦略をとる個体群が別の個体群と競争をしていて、その競争が「混乱」に見えるんです。
      多様性とのセットだと思うんです。

      で、ぼくは混乱を防ぎたい。あなたも、同じ目的だと思うんです。
      混乱を防ぎたい。
      それは犯罪を防ぎたいとかでもいいんです。
      ぼくの中の犯罪は、「ある特定の環境に適応した個体の取りうる別戦略」なんだと考えています。
      この個体数を減らしたい。
      そのときの手段として「その環境に適応した個体を殺す」か「個体がその戦略を取らなくていいよう環境に介入する」か、の意見の差異によって、ぼくとあなたは「混乱」しているのかも。
      目的はお互いに、犯罪や混乱を減らしたいのに、とかですかね。

      またブログ更新します! 次はもうちょっと別の角度から論じてみます!
      良ければきっとまた読んでみてください、、、!

  2. 通りすがった一般人 より:

    初めまして!
    東方アレンジしてた頃からかぼちゃさんの事は知ってたんですけど、ブログもやってたんですね。
    最近BMSでも活動してるって知って驚きました。
    Burning Beat超名曲ですね。今も∞リピートして聴いてますp(`・ω・´)q
    これからも音楽活動頑張ってください応援してます。
    (記事の話題は難しいのであえて触れないw)

    1. かぼちゃ より:

      うわああああああああああああああいい!!!!!
      はじめまして!!! 東方アレンジの頃からご存知いただいてる?!!
      本当に本当にありがとうございます!!!!!
      めちゃくちゃ嬉しいです!!
      長いこと活動していると、やっぱり離れていく方もいたので、長くこうやって応援してくださる方にお会い出来ると、めっちゃ励まされます!!
      ありがとうございます!!!!!!!!!!!!!
      Burning Beatはほんとkanoneさんのすばらしい楽曲を歌わせていただいて本当に光栄って感じの曲です!
      マジで名曲ですよ!!!
      これからも色々とご報告できるよう、頑張っていきます!
      CroakNotRueをなにとぞ、よろしくお願いいたします!!
      (BLOGは基本的にマジメェ・・・な感じですので、緩めのかぼちゃならツイッターですね!!
      でも読んでいただけてめちゃくちゃ嬉しいです!! ありがとうございます! またたまーにBLOGのぞいて見てくださいね!)

  3. ゃょぃ より:

    初めまして
    冬コミC93でななひらさんのアルバムに「ニーナへ。」が収録されていて
    はじめてかぼちゃさんを知りました。
    ななひらさんのアップテンポで元気な曲の中に一際目立って「ニーナへ。」
    があったので最初に聴いたとき驚きました(笑)
    その後、ブログを拝見してなるほど。と思わされました。
    すごい考え方ですね。

    趣味でやっている音ゲーで特に好きなSDVXの曲にもかぼちゃさんの曲が
    数曲入っていて知らぬ間にプレイしていたことにも驚きました(笑)

    応援しています!
    これからも活動頑張ってください!

    1. かぼちゃ より:

      おおおおおおおうおおうもうおおおおおおおありがとうございますありがとうございます、、、!!!
      本当に感謝しかない!! 全身全霊をもって感謝しかないです!!!!!!!
      「ニーナへ。」はぼくもとても楽曲としても、物語としても、表現したいメッセージが勝手に溢れてきて、しかもそれをななひらさんがとても完璧に表現してくれて、本当にお気に入りの楽曲です!! 
      そして、こうして誰かの心に刺さってくれるなら、こんなにも嬉しいことはないです!!!
      SDVXでもぼくの曲を遊んでくれているとのことで、これまた感謝しまくりだうわあああああん!!!!!
      わざわざホームページに来て、コメントまで残してくださるなんて!!!
      ありがとうございます!!! 言葉では言い尽くせないほどにありがとうございます、、、!!!

      これからも頑張ります!!! もしもまたどこか、SDVXでも誰かの楽曲でも、ぼくを見かけたら「お! まだがんばってるんだなー!」みたいに応援してやってください!!
      本当に、ありがとうございます!!!

  4. いち個体 より:

    劣悪な家庭環境で育ち、生きづらさを感じながらも、大きく踏み外さずに生きてきた人間です。
    それなりに社会的地位もあります。
    あなたの言うことは、私は正しいと思います。

    私の経験から、ひとつ付け加えるなら、ただ踏み外さずに生きる(適応する)ということは、心の成熟や幸福感を置き去りにすることです。
    おそらく、アダルトチルドレンというやつでしょう。
    育った環境というのは、非常に業が深いものです。

    余談ですが反動からか、自由に生きるアウトローに憧れがあります。

    1. かぼちゃ より:

      うああああコメントありがとうございます!! 本当に、、、!!

      どこか、こう、劣悪な環境下にいると、破滅的な衝動を抱え込んでしまうんだと思います。

      なんだろ、

      「九九」は知ってて当然の知識じゃないって考えてます。
      「九九」を学んだ人間にしか解けない。

      仮に生まれた男の子を40年間牢獄に監禁して一切の勉強をさせなければ、
      その個体は「40歳にもなって九九もできないおっさん」になるはずなんです。

      厄介なことに、この牢獄は目に見えないんです。

      見えない牢獄に囲われて、40年間、この男の子は生きてきた。
      自分ですら、見ることはできない。
      囚われていることすら気づかない。
      そして、多くの人は「幼い頃に努力もせず遊び呆けていた今は40歳のおっさん。自業自得だぜ」と、その檻の中の小さな男の子を判断する。

      この40年間、牢獄の中で生きてきた小さな男の子が、字面のごとく、「アダルト・チルドレン」なんだと思うんです。
      そうなるように、生まれてきた。
      選択肢はなかった。
      「九九」を絶対に覚えれないように、頑丈な見えない牢獄で皆で囲った。
      周囲の子が「九九」を覚えて上手く大人に褒められてステップアップする一方、
      牢獄の中で「いつまでたっても九九を覚えない無能」として罵られる。
      牢獄はより強固になっていく。
      そこを更に「甘い! おまえの努力が足りない!」といよいよ八方塞がりになる。
      絶対に脱獄などできない。
      だから、諦める。

      まぁ禁止されるのは「九九」ではなく、「友だちを作る」「恋人を作る」「暴力を振るわない」「仕事をする」「勉強をする」「体型を維持する」「依存症にならない」「スケジュールを管理する」「集中力を維持する」「自分で自分の行動を理性的に決める」だったり、なんでもいいんです。
      多くの人がまぁ、程度の差こそあれど、できなければ恥ずかしい、できて当たり前のものとして言う。

      この誰も見ることができない牢獄を、だけど、あなたは視ることができる。
      その中にいたことすらある。

      誰もが牢獄の中の子どもに石を投げつける中、
      だけど、あなたは周囲の人と一緒になって石を投げたりはできない。
      どうしても、ふとしたときに、その牢獄が見えてしまう。
      あの牢獄の中にいる小さな子どもは、自分だったかもしれない。

      支配的な親に支配された子どもは、他の親子の間でなら許されたようなわがままも禁止されて育ち、
      何をするにも「いつ降り注ぐかわからない暴力」に常に緊張しながら、
      親の言う通りにずっと生きてきたと思うんです。

      周りの友だちが自分の意志で親に保護されながら生き方を選択できた頃、
      彼らは親に支配されながら、自分で何かを選べるはずもなかったんです。

      「親の暴力から逃れ、この肉体を保護する」ということを遺伝子が目標を定め、生存戦略を立てるとなると、
      か弱い子どもにとって、「服従すること」こそが手っ取り早く身を護る唯一の手段だった。

      能動的に選択したわけじゃなく、ただそれしか選択肢がなかったんです。

      周囲の同年代の子が自分の意志で、好きなものを選び、嫌いなものを選び、
      一方で自分は親の言うとおりに、好きなものを我慢し、嫌いなものを我慢すると、
      ふと、「服従している自分」に屈辱を覚える。

      若者を煽る「親の敷いたレールの上を走るのは格好が悪い」みたいな言葉をメディアが謳う。
      その言語に同調して、選択肢がなかった自分自身を責め続ける。
      「私は皆に比べて、恥ずかしい生き物だ」と。

      誰が悪いわけじゃあないけど、
      「親の言うとおりに、他人の言うとおりに生きてきた、かっこわるい自分」ばかりを見てしまう。
      自罰的に。

      そういうときに、もしも、自由に自分で決めて、自分のやりたいものをやれたらと、
      アウトローとか、自分の思う強い意志に従って生きるみたいなのは、やっぱりそういうときに輝いて見える。
      気がします。
      するかな? ぼくにとってのロックがそうなんです。
      ピアスは空けちゃだめって言われると空けてる人がかっこよく見えて、髪の毛を染めちゃだめって言われたから、染めてる人がかっこよかった。

      まぁ、色々と厄介ですよね。
      いつかちゃんと言語にして、そういうの伝えれたらなって思います。
      ってかめっちゃ長文になってすいません、、、!

      とにかく、本当にありがとうございます!!
      こんな辺鄙なブログに遊びに来ていただいて、コメントまでいただけて、本当に嬉しいです!!
      ありがとうございます!!

  5. ヒロポン より:

    面白いですね。善悪の基準は世の中の平均値から求められていて、そこから外れた者に対して多くの人はストレスを感じるって所ですかね。外れてる人でも、人智を超えた事を証明すれば天才と言われ尊敬される。出来なければ変人。よくわからんな

    1. かぼちゃ より:

      コメントありがとうございます!

      いや本当に、難しいですよね。一人でぼんやり考えてて、本当に皆の言うことが正しいのか時々、疑ってしまうんです。

      たとえば食糧難になった時代の悪人の話を更に考えるんです。
      10人で固形栄養食を分け合う極限状態の中、一人の悪人が他の9人を全員殺して食料の独り占めを考えたけど、
      その目論見は失敗してしまう。
      おそらく9人の正義によって、その悪人は処刑されるはずなんです。

      だけど、この集団は決して状況が好転したわけじゃない。
      9人で分け合うにしても、まだ食料が足りない。
      そこに次の限界が来て、またしても同様の悪人が発生して「残り8人を殺して食料を独占しよう」と判断するんです。
      しかし、この目論見も失敗する。
      おそらく、今度は8人の正義によって、またしても悪人は処刑される。

      これをあと仮に、7回繰り返したとき、最後の一人は確かに「正義」を貫き通した人なはずなんです。

      だけどそういう背景を取っ払って、行動そのものだけを見たとき、悪人と同じく「他の人間を殺して食料を独占する」ということに結果として成功した個体だと思うんです。

      意外とぼくたちは「仲間を殺す」ってのに対してとてもストレスを感じるように進化してきたとして、
      だけど、必要に迫られて殺さなければならないシーンがたくさんあったのも事実で、
      そのときにほんの少しだけぼくたち人間の心からストレスを取り除いてきたのが「正義」という免罪符だったんじゃないかなと。

      きっと正義を執行し続け、最後に生き残った一人は自らを「仕方がなかった。あいつらが食料を独占しようとした悪人だったからだ」とある程度、自分の心を慰めることができる。
      正義ってそういうときにも役に立つかなと。

      ただし、あくまでも、善悪ってなんというか、ぼくたち人間社会を維持する上で都合が良いものを暫定的に一応線引きした程度の基準で、
      本当に社会環境によって容赦なく変わってしまう曖昧なものなんじゃないかなって思うんです。

      まぁ要するに、天才も変人も悪人も善人も本当に、勝手に周囲がそうだと考えるだけで、実際にはあんまり違いはないんじゃないかなとか。
      そういう感覚なんですよね。

  6. kan-gaeru-Ashi より:

    多様性についてふと考えていたら此処に辿り着いた

    「みんなちがう。それで(それが)いいんだ」
    価値観や認識・解釈それぞれ十人十色。
    だが世の中には「絶対に多様性を認めてやらん」という人間が必ずいるんです
    1+1=2を絶対視する輩(ちょっと言葉が悪い)が・・・。

    一昔前ならギャグで「田んぼの田」と答えたり、プログラマーならではの二進数「10」だったり多様な考えが生まれていたのです。
    もしかしたら私たちの知らぬ間に常識というものは移り変わっているかもしれないというのに
    昔からの流儀に外れる事を極度に嫌う性質の持ち主がいるのです。
    例えば、現代では罵る言葉になってしまいましたが・・・相手を敬うために「貴様」。もし偉人が現代に蘇ったとしたらきっと「???」と思う事でしょう

    1. かぼちゃ より:

      うああああああコメントありがとうございます!

      やっぱり、いますよね。なかなか、他の人の意見をそのまま多様性として受け入れられないみたいな人も。
      あるいは、それが「多様性」だと気づいてない場合もあったりだと思うんです。

      世間的に、道徳的に、宗教的に、常識として大人に厳しく「~してはいけない」と躾けられた場合、ただ、盲信するしかない状況に置かれたりして。
      それがなぜ禁止されているかを上手く説明してもらえず、「してはいけないのだから、してはいけないのだ。」としか自分も説明するしかなかったみたいな。
      厄介なことは「ご飯を残してはいけない」と厳しく躾けられた子は、将来的に「ご飯を残す人」を厳しく糾弾することにあると思います。
      なぜ「ご飯を残してはいけないのか」については色々な時代背景や社会的な事情があったろうと思うんですが、
      それらの説明がいつか失われて、とにかく理由はさておき「ご飯を残す行為」を見かけると「禁止行為に背く反社会的人間を排除せよ」とストレスを感じて攻撃行動に移ってしまう。
      みたいな。
      これもぼくたち人間が「群れ」を維持するために獲得してきた本能なのかも知れないけど、それはそれで厄介な本能ですよね。

      言葉の移り変わりもそうですね。
      ある特定の言葉が知らぬ間に「差別用語」として禁止されてたりで、創作表現が規制される~みたいな問題がぼくの場合身近に感じるやつですね。

  7. イエス・キリスト より:

    なーんだあ!単なるビジネス金目当ての記事かー

    1. kabotya より:

      そっかー!

  8. 通りすがり より:

    多様性と言ってるとおり、人それぞれ。
    人を長生きさせる、人類を存続させる、といった極論だけに絞れば確かに貴方の言ってる事は間違っていない。けど正しくはない。貴方の基準で言えば正しいとなるようだけど、貴方の基準は正しくないので結果として間違っている。

    そんな人が長生きした先は、そんな人類が存続した先は、結果として増えれば増えるほど混沌とした世界になる。そんな混沌をもたらす様な遺伝情報をインプットした遺伝子を残す事が正しい訳ないですよね。もちろん生きる資格がないと言ってる訳ではない。

    自分の人生がどうであろうと過去を振り返り、事象の原因や結果をよく分析し、己が過ちや他者の過ちを理解し、愛と真眼をもって己が過ちを反省し、また他者に反省を促し、自身が正しいと思い込んでいた過ちを正す事もできる。

    貴方の言っている事は貴方の経験と今の貴方の「基準」からくる価値観の中では正しいけれど、本当の意味での正しい「基準」から見れば未熟で幼稚で悪意を蔓延らせる愚かな価値観でしかない訳です。それとも反面教師をされているのでしょうか。だとしたら要らぬ世話なのでやめておきましょう。そんな事をしなくても人は育ちます。

    貴方が真に目覚めますように。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      「愛」「正しさ」をどうやって獲得するか、なんです。

      全ての人間が貴方のように「愛」「正しさ」を信じられる環境に生きていれば良かった。
      「幼稚な人間」など一人もいないほうが良かった。
      「愛」や「正しさ」を獲得できた人間が、それを獲得できなかった人間を「幼稚だ」と淘汰していくのならばそれは良いのです。

      それが実現するなら、「幼稚な人間」などいなくなり、美しい世界が完成する。
      全人類が例外なく統一され、平均化されるなら、その幼稚である人類を「愛がない」「正しくない」と滅ぼしていく手段を取ればいいと思うんです。
      劣っている人間を消していけば、優れた人間のみが生き残る。
      暴力でもいいし、教育、洗脳でもいい。
      ぼくもそうあるべきだと思います。
      環境に適応できた人間のみが生き残ればいい。
      「愛がない」「正しくない」個体などいないほうが良いに決まっている。
      貴方の言うように、貴方は「正しい」。

      だけど、例えば、Ifの話ですが、運命の間違いによって、幼少期の「貴方」や、「貴方の家族」、或いは「愛する友人」は圧倒的な暴力に、為す術もなく従わざるを得なくなった。
      服従するしかなかった。
      「貴方たち」は「愛」「正しさ」が通用しない世界に突き落とされた。
      そのあとに、「貴方たち」の前に立ち塞がるのが、今の貴方のように「愛」「正しさ」を獲得できた恵まれた人たちなのだ。
      今の貴方が、運命の間違いに晒された架空の「貴方たち」の首にロープをかける。
      架空の「貴方」は今の貴方の暴力を受け入れるのだろうか。
      「貴方の家族」は「愛がない」という罪状によって吊るされた。
      「貴方の友人」は「正しくない」という罪状によって吊るされた。
      そして「貴方」の番が来た。
      「私は、愛を獲得できなかった、正しくなかった、幼稚な人間であった。このロープは正義のロープであり、このロープが首にかけられる私は幼稚な人間故、この死は正しい」
      貴方は「貴方」を吊るす。正義は執行された。
      貴方は彼らに向かって「目が覚めますように」と祈る。

      ぼくはそういう世界が来てほしくはないんです。

      貴方の「愛」も「正しさ」も、「愛がなければならぬ、正しくなければならぬ」という「学習」によって後発的に獲得した気質だと思うんです。
      「遺伝情報」ではなく、「環境による学習」だと考えているんです。
      (むしろ、人類最初の七人は残虐な遺伝子情報を持っていたとまで聞く)
      その「学習」は全動物に当てはまらない。
      「愛」「正しさ」を「学習」できたのは、真に幸運だった。
      どのタイミングで、誰から教わりました?
      どんな環境でした?
      そして全人類にその環境は行き届いていますか?
      叶うなら、貴方がその「愛」「正しさ」を獲得できたように、他の「愛」「正しさ」を獲得できない人間に行き渡らせて欲しい。

      反面教師というのは、良い読みです。
      ぼくたちは貴方とは少しズレた環境に生きてきた。
      だからこそ、自分で考える機会を授かった。
      幼稚だからこそ、純粋に疑問に思えたという意味で、幼稚な方が幸福かもとは自分を肯定してますよ。

      まぁまぁ、何にせよ!
      ぼくのブログが心に引っかかった(少なくとも全文を読んでいただけた!)というのは、嬉しい限りです!
      ありがとうございます。

  9. ポンコツ大学生 より:

    いわゆる悪というものがこの世から消え、現在あるすべての課題を解決したら人は人でいられるのか。多様性が存在しているから意思が必要なわけで、多様性があるからこそ問題が存在する。問題を解決するということはある種多様性を排除することだと思う。テクノロジーや論理は飛躍的に進歩を遂げている。人類が滅亡さえしなければ遅かれ早かれ理想に近い社会が実現するだろう。解決すべき問題がなくなったら人類はどうなるのだろうか。
    多様性という言葉を聞きふと疑問に思ったことをコメントしました。記事と少しズレてすみません。この記事を読んだ感想としては正しいか正しくないか判断しかねる内容だと思いました。おそらく哲学的、心理学的に考えるか社会的に考えるかで見た方が変わるのでしょう。私は基本的に前者で物事を考えるのでこの内容を肯定的に捉えることができますが、後者を重視している人はおそらく否定的になるのではないでしょうか。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!
      おっしゃる通りで、多様性があるから、問題、というか、競争があり、競争があるからこそ、うまく進化なり適応なりができていくと考えてるんです。
      そして、仮に進化の果てで、理想的な、完璧な、安定した社会が完成した瞬間、だけど、あとは、人間は滅びるだけで「役目を終えた状態」になるんだとも考えてるんです。

      ステラーカイギュウという動物が昔いたんです。
      詳細は省きますが、人類に滅ぼされました。

      とても優しい動物だったみたいです。
      仲間が殺される中、その仲間をなんとか助けようと集まってくる。
      そういう習性を獲得していたようです。

      多くの人は「人間」という動物の残虐性を説明する材料としてこの逸話を出すけど、
      自分は少し違って、
      「仲間を見捨てて、逃げ出せる個体がいれば。
      あるいは人間を問答無用で襲う臆病さ、攻撃性のある個体がいれば、あるいはもう少し結果は変わった」
      と考えてるのです。

      なんていうのか、この絶滅したステラーカイギュウは、「問題が解決した」状態だったと言えるはずなんです。
      全ての個体は優しく、愛のある、美しいコロニーを築いていた。
      そのはずなんです。
      絶滅するはずがなかった。
      完璧だった。
      万一、優しくない個体、わがままな個体がいれば、コロニーから追い出せば良い。
      追い出された「優しくない個体」はつまり、競争にことごとく敗北していった。
      そして問題が解決して、全ての個体が「優しい個体」の理想的な社会が完成した。
      だけど、結果として、外部からの思わぬ環境の変化(この場合は「人間」という侵略者だった)に晒されたとき、
      対抗手段がなにもなく、結局絶滅の途を辿った。
      理想的な社会が完成したのに。
      対抗手段がなくなっていた。
      「遺伝子」は本当に容赦なく、その「理想的な社会」にたどり着けないよう、絶滅させないよう、
      ぼくたちに競争を強いているんじゃないかと。
      ふと、思うんですよね。

      まぁ、なんか、きっとどこかでもう少し詳しく、話を掘り下げて、もっと「人間」という動物を論じたいなって思います。
      こうして2016年の記事にコメントしていただけて、本当に嬉しいです。
      ありがとうございます!

  10. 名無し より:

    他の誰かも言っていますけど、幼稚な考えです。
    貴方みたいな人、たまにいます。なまじ真剣に考えて考えて出した結論だからこそ揺るぎないものになっている。それがこのコメント返しにも見られます。一見多様性を受け入れている様でその実は『多様性であらねばならない』という多用的でない性質が見られます。

    貴方の理論だと、極論人間は何をしても良くなってしまう。それがいわゆる混沌で、その混沌すらあって然るべきとなってしまう。リヴァタリアニズムが行き過ぎている。

    貴方に何を言っても無駄だろうし、恐らくたくさん言われてきたからこそ麻痺してしまったのか或いは傷ついてはいるがそれを見せまいと強がっているかのどちらかでしょう。コメント返しを見ていると後者であると思いますが。

    そしてまだ恐らく若いだろうね。人の考えって緩やかに変わっていくものだけど、多くの人にとって貴方の存在がよい方向に変わってくれる事を祈ります。

    危険思想に一歩踏み入れてますよ。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      人は何をしても良い、というよりも、良いも悪いも何もない、人はそれをする、というのが考えです。
      そしてその状態を混沌としているか、というと、混沌としていないと思っています。
      事実、今、すべての人は例外なく、良いも悪いも何もなく、それをしている。
      そして今の世界のどこを切り取っても、混沌、なんてない。
      おおよそ現代日本で生きるぼくたちの眼から見て受け入れがたいものであっても、そこには確かに秩序があるようなんです。
      人間は特別な存在で、他の動物よりも優れていると思えばこそ、受け入れがたいかも知れないけど、自分は、人間は人間以上のことは何もできないなと考えています。

      自分はなんというか、傷ついてはいないんです。
      「多様性であらねばならない」とまで考えていないです。
      たとえば、固有種が、外来種によって淘汰されたとき、ぼくはそれはとても自然だと思う。
      人間が持ち込んだから人間のせいだ、みたいな意見があっても、自分は別にそうは思わない。
      適者生存によって、正しく滅んだ種と、生き残った種があっただけなんだと思うんです。

      だから、「多様性など認められるものか、我こそは正義なり!」と、敵を殺す行為も、まぁいいと思うんです。
      特別におかしな行動とも、間違ってるとも、思ってない。

      それこそ、多様性なんて毎回認めてたら種は滅んでしまう。
      思想や種を統一したほうが有利に働くときがある。
      強固な一本の思想のもと、団結して困難に立ち向かう方が、
      多様性であっちこっちの意見を全部汲み取ろうとして何も行動できない場合よりも、
      はるかに有利に働くことがある。
      それも含めて、多様性だと思うんです。

      それはさておき。

      ある魚は、テリトリーを持っている。
      そのテリトリーに入ってきた同種の魚を、攻撃する特性を持っているんです。
      テリトリーに入ってきた他の個体を殺そうとするんです。
      自分のテリトリーから出ていかなければ、別個体を殺すんです。
      これは、テリトリーに入ってきた個体に対して「ストレス」を感じて、そのストレスに対する反応として、「攻撃」をしているんじゃないかなと。
      この魚は、何も考えていない。
      考えることすらできない。
      操られている。
      遺伝子に。環境に。
      一見して自分の意志で個体を攻撃しているように見せかけて、何もそこに意思はない。選択肢はないな、と思うんです。

      この魚は、悪い魚だから、殺してしまうべきだ。
      この魚は、混沌としている種族だから、滅びるべきだ。
      そう予測して、そうなるように介入することが「成熟した理想の社会」なのかどうかなんです。
      そもそもこの魚が悪いのか良いのか、よくわからないんです。

      ある人がいる。
      その人は「悪人は殺すべきだ。理屈は知らぬ」と考えている。
      だから、「悪人などいないよ。勝手にぼくたちが、そういう基準を設けているだけで、実際には生物的にその基準が有利に働いたからそれを採用しているだけだよ」という意見を言う個体を見たときに、
      「幼稚な人だ。危険思想一歩手前ではないだろうか」とストレスを感じて苦言を呈するとして、
      それは別におかしくないと思うんです。

      ぼくが正しい、というわけじゃないんです。
      貴方が正しい、というわけじゃないんです。
      テリトリーに入ってきた別個体を攻撃する魚を見ても「正しい」と感じないように。
      ステラーカイギュウが絶滅したのを見ても「正しい」と感じないように。

      海を見ても、山を見ても、人を見ても、何を見ても、混乱なんてどこにもない。
      とても自然に、どうあがいても生きているし、死んでいってるように見える。
      争うという選択を取って未来への生き残りを賭ける個体、協力するという選択をとって生き残りを賭ける個体、色んな個体がいるなと。
      そして、いずれも同じように生き残ろうとして戦っているなと。

      個人的な一番の主張は、結局、
      叶うなら、選択肢をせめて、弱い者にも、あってくれって思うんです。
      サイコロで「1」を出した人に、かわいそうだからと「5」を与えるのではなく、もう一度せめてサイコロをふるチャンスがあってほしい。
      そもそも、サイコロに細工をして、「1」が出ないようにするようインチキはできないかな?
      とかも考えるんです。
      でも、誰も「サイコロで1を出すのは、その人がマヌケで努力不足だからさ」とサイコロの正体を見ようともしないし、その人をいかに残虐に罰して潰すかと言うことを考える。
      その残虐に罰しようとする彼らも、でも、結局、群れ(テリトリー)に発生した敵(群れを脅かすストレス)にさらされて、それ以外の選択肢がなく、攻撃するように操られている。

      危険思想。というほどテロではないと思ってたんです。社会的混乱をもたらせるようなものはない。
      ぼくは基本的に「人は、まぁ」って言って、それこそ意見があっても声を上げることすらあまりない。

      ただ、思想に共感してほしいというより、人の考えるきっかけになっているのであれば、幸いです。
      また、きっとブログ、で詳しく、本当に、人間ということを、或いはブログでなくても、どこかで誰にも伝わるように、論じていきたいなと思います。

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