世の中から悪人がいなくなれば、人類は滅んでしまうという問題。

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遠い未来の話です。

人類は世界的な食糧難に見舞われます。

全ての人間には平等、愛、正義という素晴らしい概念があります。

争うのは良くないので、みんなでわずかな食料を分け合うことにします。

極端な例ですが、1日に3個の固形栄養食を、10人の人間で分け合う過酷な生活が始まるとします。

愛と優しさを持ち寄って、空腹を耐え忍ぶんです。

どれくらい、私たちは生き延びられるでしょうか。

あっという間に、全員そろって飢え死にしそうです。

だけど、もし、この10人の中に1人でも、愛のない個体がいて、

「他の9人を殺せば、栄養食を1日3個、食べられるじゃあないか」

と思考し、その通りに行動したなら。

ちょっとだけ、そいつは他の個体より長生きしそうな気がするんです。

そしてその個体こそが、人類の遺伝子を1日でも先の未来へ残せる可能性なんだと思うんです。

現代社会に当てはめれば9人を殺した1人は身の毛もよだつ犯罪者だけど。

人類にはどうしても1~2%ほど、そういう人間がいて、彼らは生存戦略的に必要な多様性の一つなんだと思うんです。

善とか、悪とか、そういう話じゃないんです。

なんというか、サイコパスでなくとも、人には悪いスイッチみたいなのがあると思うんです。

おなかが空くとイライラする。

寝不足になるとイライラする。

不安になるとイライラする。

とか、体が危機を感じて、その悪いスイッチをONにして、危機を排除しようとする本能のようなもので、

そのイライラがあるからこそ、人は生き延びてきたんだと思うんです。

おなかが空いてイライラさせれば、攻撃的になって、食糧確保に見境がなくなり、生き残る率が上がったとか、

寝不足や不安も、攻撃性を増して外敵の排除に務めさせて、周囲の安全を確保して休息を取らせようとか。

上記の10人の食糧問題も、イライラさせることによって、食料を奪いやすく、争いを起こしやすくして、

より強い個体が生き延びれるような、そういう競争を起こすことができると思うんです。

誰もが、そういうスイッチを持っているんじゃないかな、と思うんです。

つまり、環境さえ整えば、人は優しくもなれるし、残虐にもなれる、そういうスイッチがあると思うんです。

あなたは、「自分はまさか、人を殺したりしない」と思います?

 

 

ある男が子どもを虐待死させるんです。

その男は自分の子どもを殴って殺した。

何故そんなことを?

「目が合った。その目つきが気に食わなかった」

この男はつまり、「目が合うと人を殴る」という特質を得ていたようですが、どういう環境を用意すれば、その特質を別個体に再現させることができるでしょうか?

「目が合うと人を殴る」は言い換えれば、「目が合うとストレスを感じ、そのストレスを排除するべく反応する」です。

人間はストレスを与えられた際に、排除できる場合は「怒り」を感じて攻撃行動に、排除できない場合は「恐怖」を感じて距離を取るべく逃走を選択するとして、

後はじゃあ、目が合ったときにストレスを感じるよう学習させればいいんです。

どんな環境において、どんな学習が必要でしょうか。

人と目が合うと電気ショックを与えられるとか、目が合うと食料を取り上げられるとか、マウスのような実験的環境ではなく、

現実的に何か、人間の生活する環境下でこの個体は、目が合うことと同時に、ストレスを与えられてきたはずなんです。

 

簡単に思いつくのは、まぁ、目を見ながら、殴れば良いと思うんです。

パブロフの犬はエサを与えられる前に鈴の音を聞かされていて、やがて鈴の音とヨダレの分泌が条件付けられたように、

目を見ながら子どもを殴れば、やがて目が合うだけでストレスを感じて身構えるようになる。

虐待が世代間で引き継がれるのは有名な話なんですが、この男は自分の子どもにしでかしたことと、似たような目に遭ってきたのでしょう。

この場合、個体そのものは特別でもなんでもなくどこにでもいる人間で、環境がちょっと特殊だったと思うんです。

親、時代、土地、遺伝的要因などの環境を生まれてくる子どもが選択できるかは、

「サイコロで1を出したやつは死刑なので1を出さないように気をつけてください」くらい無茶な注文です。

あなたが同じ環境に置かれたとして、あなたはその環境下で適応せずにいられるでしょうか。

ほぼ毎日、何かの理由を付けて親に殴られて、「人は目が合うと殴ってくる」と学習したなら、

外ではまるで目を合わせない怯えた子どもになるだろうとして、

友だちもできず、ひたすら誰に対しても怯えて攻撃的になるか、逃走する毎日か、

やがてその環境下で尚死ぬことなく正しく適応して生き延びて大人になったあなたは、

だが、鈴の音を聞いてヨダレを垂らす犬の如く、目が合った子どもを反射的に殴ってしまう。

「目が合った。ストレスを感じた。そのストレスは排除できる弱者であった。だから、殴った。子どもは死んだ」

ニュースは駆け巡り、あなたの首にはロープがかかる。

――なんて悪いヤツだ! 人でなしめ! 死刑でよい!

あなたは罵声を浴びせられる。

あなたの人生は終わるが、振り返ってみて、幸せだったろうか?

あなたの人生のどこに努力によって覆せる要素があっただろうか、という問題なんです。

家庭環境がたまたま劣悪で、そこに適応したせいで、社会に出て適応できずに排除されるんです。

サイコロで1を出したから、死刑でもいいわけです。

まぁ、実際はあなたもぼくも、サイコロで1は出さなかったようだ。

運が良かった。

ただ、事実、サイコロで1を出した子どもは今も現実にいると思うんです。

かつてサイコロで1を出した子が親になって、サイコロで1を出した子を現在、虐待しているんです。

その子は今もその環境に順調に適応して、友だちもできず、家に帰っても安全はなく、学校にも安全はなく、

ただひたすらに反社会的な学習をして、10年後、陰惨な殺人事件を起こすんです。

そして、ぼくたちはその子どもを殺すんです。

 

人間は社会性があるとして、その社会性を誰から学ぶかといえば、大体は、最初に親となる存在から学ぶんです。

親に食料を与えられ、安全を与えられ、愛情を注がれ、

誰かに奪われる恐れもなく、誰かから奪う必要も無いと学習するんです。

ところが、親が食べ物を与えず、泣いても相手せず、子どもを虐待すると、

「常に危機がある。攻撃性を高めよう。そうして自らを脅かす敵を排除させて、安全を確保する。

敵か味方かを一々吟味してる内に殺されるぞ。全て敵だと思い、排除か逃走に務めよう。

この危機的環境下での遺伝子の断絶を防ぐため、性欲を強めて強引にでも繁殖活動をさせよう。

多数の次世代個体に遺伝子を乗せ替えるのだ。一個体を集中的に保護する戦略ではなく、多数個体にリスクを分散させよう」

と生き残るためのスイッチが入るんじゃあと想像するんです。

暴力的で性欲が強い、絵に描いたような無責任な悪人になると思います。

でも、そっちの方が、動物的に正しいと思うんです。

 

犯罪者は可哀想って話じゃないんです。

別に厳罰化して死刑ビシバシしてもいいと思います。

それはだって、生存競争の一種だと思うんです。

テリトリーに侵入してきた別個体にストレスを感じて攻撃するのをおかしいとは思わない。

群れをおびやかす個体を見て、排除しようとする動きが起こるのをおかしいとは思わない。

ただ、決してぼくたちは正義のために殺しているのだとは思わない。

様々な環境に適応してきた個体同士がどうしようもなく殺し合ってるんだと思うんです。

この世には正義も悪もなく、ただ置かれた環境に適応してきた個体がいるだけなんです。

自分と意見が合わない、おおよそ理解できない行動をする人も、

きっとその人の生きてきた環境、親や、思想、経済状況、遺伝子、時代、色んな要素に適応しながら、

生きていく上で都合の良い物を選択して、

現在の自分として行動しているんだろうなって話です。

飼い猫が人に懐き、野良猫が人を見て逃げるとしましょう。

飼い猫は「人は安全である。エサを与えてくれる」と学習した個体で、

野良猫は「人は自分よりも体が大きい。自分を見るとちっちっと舌を鳴らす威嚇音を発し近づいてくる。やばい。こわい」と学習した個体だと思うんです。

ところで、飼い猫は「正義」で、野良猫は「悪」なのでしょうか。

ぼくにはどちらも与えられた環境に正しく適応した個体に見えるんです。

あなたも、もしも、何か、他の人とうまく行かない、とか、社会的に上手くいかないとか、

そう言う悩みで、他人だけでなく、自分自身を責めてたりしたら、

ただ単に、生きてきた環境下で自分が適応してきた結果であって、

善悪があるわけじゃあないって考え方も、まぁ、おすすめです。

 

あなたは、悪い人じゃあないし、

そして、あなたは、善い人じゃあない。

善い者、不幸な者はいつか報われるとは限らないし、

悪者がおいしい思いをして、不幸な者が不幸なまま終わることだってあるんです。

ただ、どんな環境に適応してきたのか、そしてどんな環境に適応できるのか、それが問われている。

適応できていないのであれば、改めて適応できるよう戦略を柔軟に変えればいいだけです。

まぁ、Who is the predator? はそういう作品です。

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コメント

  1. nul より:

    病気だなあんた
    そういう甘い考えが今の混乱した世の中を作り上げたんだよ
    うるさい事は言わないからもう少し考え直してみろ。

    1. かぼちゃ より:

      あわわわわコメントありがとうございます!
      結構まじめな記事書いてもあんまり反応なかったのでブログもどうかなぁと思ってたのですが、
      こうしてコメントいただけて光栄です!!

      病気という表現はさておき、ちょっと人とズレた意見かもなぁとぼくも理解してます。
      大丈夫です。健康!

      ぼくも難しいなぁとも考えるんです。

      人間の最終的なゴールは何なんだろうか、そして、そのゴールに向かってどういう道を辿るべきか、って考えるんです。
      ぼくの考えるゴールは「人類史を少しでも長く維持する」です。
      そして、そのためには多様性が必要なんだ、そして、その多様性は競争を発生させる、と諦めています。

      「今の混乱した世の中」という言葉から察するに、昨今の社会的な痛ましいニュースを見て胸を痛めてらっしゃるのだろうと思います。
      ぼくも悲しいです。
      あるいは、「世の中を混乱させる人間」を淘汰するのも一個の戦略、思想として、ぼくだって正しいとも考えます。

      ただ、「混乱」という表現ではあっても、別の見方からは容赦なく「淘汰、競争」なんだと思っています。
      ある戦略をとる個体群が別の個体群と競争をしていて、その競争が「混乱」に見えるんです。
      多様性とのセットだと思うんです。

      で、ぼくは混乱を防ぎたい。あなたも、同じ目的だと思うんです。
      混乱を防ぎたい。
      それは犯罪を防ぎたいとかでもいいんです。
      ぼくの中の犯罪は、「ある特定の環境に適応した個体の取りうる別戦略」なんだと考えています。
      この個体数を減らしたい。
      そのときの手段として「その環境に適応した個体を殺す」か「個体がその戦略を取らなくていいよう環境に介入する」か、の意見の差異によって、ぼくとあなたは「混乱」しているのかも。
      目的はお互いに、犯罪や混乱を減らしたいのに、とかですかね。

      またブログ更新します! 次はもうちょっと別の角度から論じてみます!
      良ければきっとまた読んでみてください、、、!

    2. 高卒くん より:

      この記事の考えは素晴らしく全うだ。

      人類だけを特別視している、結局は人間だけのエゴで意見すると貴方みたいな返答になる。

      そしてそんな人間が多すぎるから差別やら、格差ができる。

      結局はサイコロで6を引いた人間の都合のいい社会しか出来上がらない。

      でもこの記事の通り、人間も昆虫も同じように考えればこの考えが当然であり、普通。

      地球と言う星からしてみれば、人間もただの環境に応じて勝手に進化する雑草でしかない。

      その中で悪だの正義だの言っている人間の方が滑稽である。

      と言う事にも気づけない無能だから、その程度の発言になる。
      と言うことにすらまた気づけないのだろうけど。

      1. kabotya より:

        コメントありがとうございます。

        ちょっと話は逸れるんですが、ある意味で「無能」というのも、
        ぼくたちに架せられた呪いのようだとも思うんです。
        「有能であらねばならない」という正義というか、社会的な要求からくる言葉なんだろうと。

        反社会的な事件を見ると、人々が苛立つように、
        ぼくたちは、無能な人、愚かな人、人の愚かな部分、そういうのを見ると、苛立つ日もあるみたいなんです。
        どこかで、ぼくたちはぼくたち自身に「有能であらねば」と不必要に要求してたりするんです。
        裏を返せば、ときに、ふと無力感を感じて「私は無能だ」と自分自身を自己嫌悪してしまったり。

        だけど、結局、似た話なんだろうなと思うんです。
        善悪がないように、有能無能も実は存在しないような。
        今の時代だと、良い大学を出て良い企業に就職してほどよく出世して結婚して子どもを授かって~ みたいな理想はあるけど、
        でも、それら一般的に「有能」と称されるような生き方も、ぼくに言わせれば環境の賜物であるように、
        無能な人間も実はいないんじゃないかなと。
        どれだけ破滅的な生き方をしていても、でも実はその人が選んだ生き方ではなく、それしか選べなかったからそう生きてきたような。

        結局、どんな生き方、能力的な差、あるいは思想、意見も、その人にとってそれらがもっとも環境に適応してきた答えなんだと思うんです。
        ぼくの思想も、きっと一部の人には都合が良いけど、別の環境から見たら、都合が悪すぎる場合もあると思うんです。
        ある意味、「悪人がいないと困る人」は、当然、一定数いるだろうなと。
        それが良いか、悪いか、有能か、無能かはさておき。

        まぁでも、ありがとうございます。
        感情として、ぼくに代わってぼくの意見を真っ向から肯定していただけて嬉しいです。
        ありがとうございます。

  2. 通りすがった一般人 より:

    初めまして!
    東方アレンジしてた頃からかぼちゃさんの事は知ってたんですけど、ブログもやってたんですね。
    最近BMSでも活動してるって知って驚きました。
    Burning Beat超名曲ですね。今も∞リピートして聴いてますp(`・ω・´)q
    これからも音楽活動頑張ってください応援してます。
    (記事の話題は難しいのであえて触れないw)

    1. かぼちゃ より:

      うわああああああああああああああいい!!!!!
      はじめまして!!! 東方アレンジの頃からご存知いただいてる?!!
      本当に本当にありがとうございます!!!!!
      めちゃくちゃ嬉しいです!!
      長いこと活動していると、やっぱり離れていく方もいたので、長くこうやって応援してくださる方にお会い出来ると、めっちゃ励まされます!!
      ありがとうございます!!!!!!!!!!!!!
      Burning Beatはほんとkanoneさんのすばらしい楽曲を歌わせていただいて本当に光栄って感じの曲です!
      マジで名曲ですよ!!!
      これからも色々とご報告できるよう、頑張っていきます!
      CroakNotRueをなにとぞ、よろしくお願いいたします!!
      (BLOGは基本的にマジメェ・・・な感じですので、緩めのかぼちゃならツイッターですね!!
      でも読んでいただけてめちゃくちゃ嬉しいです!! ありがとうございます! またたまーにBLOGのぞいて見てくださいね!)

  3. ゃょぃ より:

    初めまして
    冬コミC93でななひらさんのアルバムに「ニーナへ。」が収録されていて
    はじめてかぼちゃさんを知りました。
    ななひらさんのアップテンポで元気な曲の中に一際目立って「ニーナへ。」
    があったので最初に聴いたとき驚きました(笑)
    その後、ブログを拝見してなるほど。と思わされました。
    すごい考え方ですね。

    趣味でやっている音ゲーで特に好きなSDVXの曲にもかぼちゃさんの曲が
    数曲入っていて知らぬ間にプレイしていたことにも驚きました(笑)

    応援しています!
    これからも活動頑張ってください!

    1. かぼちゃ より:

      おおおおおおおうおおうもうおおおおおおおありがとうございますありがとうございます、、、!!!
      本当に感謝しかない!! 全身全霊をもって感謝しかないです!!!!!!!
      「ニーナへ。」はぼくもとても楽曲としても、物語としても、表現したいメッセージが勝手に溢れてきて、しかもそれをななひらさんがとても完璧に表現してくれて、本当にお気に入りの楽曲です!! 
      そして、こうして誰かの心に刺さってくれるなら、こんなにも嬉しいことはないです!!!
      SDVXでもぼくの曲を遊んでくれているとのことで、これまた感謝しまくりだうわあああああん!!!!!
      わざわざホームページに来て、コメントまで残してくださるなんて!!!
      ありがとうございます!!! 言葉では言い尽くせないほどにありがとうございます、、、!!!

      これからも頑張ります!!! もしもまたどこか、SDVXでも誰かの楽曲でも、ぼくを見かけたら「お! まだがんばってるんだなー!」みたいに応援してやってください!!
      本当に、ありがとうございます!!!

  4. いち個体 より:

    劣悪な家庭環境で育ち、生きづらさを感じながらも、大きく踏み外さずに生きてきた人間です。
    それなりに社会的地位もあります。
    あなたの言うことは、私は正しいと思います。

    私の経験から、ひとつ付け加えるなら、ただ踏み外さずに生きる(適応する)ということは、心の成熟や幸福感を置き去りにすることです。
    おそらく、アダルトチルドレンというやつでしょう。
    育った環境というのは、非常に業が深いものです。

    余談ですが反動からか、自由に生きるアウトローに憧れがあります。

    1. かぼちゃ より:

      うああああコメントありがとうございます!! 本当に、、、!!

      どこか、こう、劣悪な環境下にいると、破滅的な衝動を抱え込んでしまうんだと思います。

      なんだろ、

      「九九」は知ってて当然の知識じゃないって考えてます。
      「九九」を学んだ人間にしか解けない。

      仮に生まれた男の子を40年間牢獄に監禁して一切の勉強をさせなければ、
      その個体は「40歳にもなって九九もできないおっさん」になるはずなんです。

      厄介なことに、この牢獄は目に見えないんです。

      見えない牢獄に囲われて、40年間、この男の子は生きてきた。
      自分ですら、見ることはできない。
      囚われていることすら気づかない。
      そして、多くの人は「幼い頃に努力もせず遊び呆けていた今は40歳のおっさん。自業自得だぜ」と、その檻の中の小さな男の子を判断する。

      この40年間、牢獄の中で生きてきた小さな男の子が、字面のごとく、「アダルト・チルドレン」なんだと思うんです。
      そうなるように、生まれてきた。
      選択肢はなかった。
      「九九」を絶対に覚えれないように、頑丈な見えない牢獄で皆で囲った。
      周囲の子が「九九」を覚えて上手く大人に褒められてステップアップする一方、
      牢獄の中で「いつまでたっても九九を覚えない無能」として罵られる。
      牢獄はより強固になっていく。
      そこを更に「甘い! おまえの努力が足りない!」といよいよ八方塞がりになる。
      絶対に脱獄などできない。
      だから、諦める。

      まぁ禁止されるのは「九九」ではなく、「友だちを作る」「恋人を作る」「暴力を振るわない」「仕事をする」「勉強をする」「体型を維持する」「依存症にならない」「スケジュールを管理する」「集中力を維持する」「自分で自分の行動を理性的に決める」だったり、なんでもいいんです。
      多くの人がまぁ、程度の差こそあれど、できなければ恥ずかしい、できて当たり前のものとして言う。

      この誰も見ることができない牢獄を、だけど、あなたは視ることができる。
      その中にいたことすらある。

      誰もが牢獄の中の子どもに石を投げつける中、
      だけど、あなたは周囲の人と一緒になって石を投げたりはできない。
      どうしても、ふとしたときに、その牢獄が見えてしまう。
      あの牢獄の中にいる小さな子どもは、自分だったかもしれない。

      支配的な親に支配された子どもは、他の親子の間でなら許されたようなわがままも禁止されて育ち、
      何をするにも「いつ降り注ぐかわからない暴力」に常に緊張しながら、
      親の言う通りにずっと生きてきたと思うんです。

      周りの友だちが自分の意志で親に保護されながら生き方を選択できた頃、
      彼らは親に支配されながら、自分で何かを選べるはずもなかったんです。

      「親の暴力から逃れ、この肉体を保護する」ということを遺伝子が目標を定め、生存戦略を立てるとなると、
      か弱い子どもにとって、「服従すること」こそが手っ取り早く身を護る唯一の手段だった。

      能動的に選択したわけじゃなく、ただそれしか選択肢がなかったんです。

      周囲の同年代の子が自分の意志で、好きなものを選び、嫌いなものを選び、
      一方で自分は親の言うとおりに、好きなものを我慢し、嫌いなものを我慢すると、
      ふと、「服従している自分」に屈辱を覚える。

      若者を煽る「親の敷いたレールの上を走るのは格好が悪い」みたいな言葉をメディアが謳う。
      その言語に同調して、選択肢がなかった自分自身を責め続ける。
      「私は皆に比べて、恥ずかしい生き物だ」と。

      誰が悪いわけじゃあないけど、
      「親の言うとおりに、他人の言うとおりに生きてきた、かっこわるい自分」ばかりを見てしまう。
      自罰的に。

      そういうときに、もしも、自由に自分で決めて、自分のやりたいものをやれたらと、
      アウトローとか、自分の思う強い意志に従って生きるみたいなのは、やっぱりそういうときに輝いて見える。
      気がします。
      するかな? ぼくにとってのロックがそうなんです。
      ピアスは空けちゃだめって言われると空けてる人がかっこよく見えて、髪の毛を染めちゃだめって言われたから、染めてる人がかっこよかった。

      まぁ、色々と厄介ですよね。
      いつかちゃんと言語にして、そういうの伝えれたらなって思います。
      ってかめっちゃ長文になってすいません、、、!

      とにかく、本当にありがとうございます!!
      こんな辺鄙なブログに遊びに来ていただいて、コメントまでいただけて、本当に嬉しいです!!
      ありがとうございます!!

  5. ヒロポン より:

    面白いですね。善悪の基準は世の中の平均値から求められていて、そこから外れた者に対して多くの人はストレスを感じるって所ですかね。外れてる人でも、人智を超えた事を証明すれば天才と言われ尊敬される。出来なければ変人。よくわからんな

    1. かぼちゃ より:

      コメントありがとうございます!

      いや本当に、難しいですよね。一人でぼんやり考えてて、本当に皆の言うことが正しいのか時々、疑ってしまうんです。

      たとえば食糧難になった時代の悪人の話を更に考えるんです。
      10人で固形栄養食を分け合う極限状態の中、一人の悪人が他の9人を全員殺して食料の独り占めを考えたけど、
      その目論見は失敗してしまう。
      おそらく9人の正義によって、その悪人は処刑されるはずなんです。

      だけど、この集団は決して状況が好転したわけじゃない。
      9人で分け合うにしても、まだ食料が足りない。
      そこに次の限界が来て、またしても同様の悪人が発生して「残り8人を殺して食料を独占しよう」と判断するんです。
      しかし、この目論見も失敗する。
      おそらく、今度は8人の正義によって、またしても悪人は処刑される。

      これをあと仮に、7回繰り返したとき、最後の一人は確かに「正義」を貫き通した人なはずなんです。

      だけどそういう背景を取っ払って、行動そのものだけを見たとき、悪人と同じく「他の人間を殺して食料を独占する」ということに結果として成功した個体だと思うんです。

      意外とぼくたちは「仲間を殺す」ってのに対してとてもストレスを感じるように進化してきたとして、
      だけど、必要に迫られて殺さなければならないシーンがたくさんあったのも事実で、
      そのときにほんの少しだけぼくたち人間の心からストレスを取り除いてきたのが「正義」という免罪符だったんじゃないかなと。

      きっと正義を執行し続け、最後に生き残った一人は自らを「仕方がなかった。あいつらが食料を独占しようとした悪人だったからだ」とある程度、自分の心を慰めることができる。
      正義ってそういうときにも役に立つかなと。

      ただし、あくまでも、善悪ってなんというか、ぼくたち人間社会を維持する上で都合が良いものを暫定的に一応線引きした程度の基準で、
      本当に社会環境によって容赦なく変わってしまう曖昧なものなんじゃないかなって思うんです。

      まぁ要するに、天才も変人も悪人も善人も本当に、勝手に周囲がそうだと考えるだけで、実際にはあんまり違いはないんじゃないかなとか。
      そういう感覚なんですよね。

  6. kan-gaeru-Ashi より:

    多様性についてふと考えていたら此処に辿り着いた

    「みんなちがう。それで(それが)いいんだ」
    価値観や認識・解釈それぞれ十人十色。
    だが世の中には「絶対に多様性を認めてやらん」という人間が必ずいるんです
    1+1=2を絶対視する輩(ちょっと言葉が悪い)が・・・。

    一昔前ならギャグで「田んぼの田」と答えたり、プログラマーならではの二進数「10」だったり多様な考えが生まれていたのです。
    もしかしたら私たちの知らぬ間に常識というものは移り変わっているかもしれないというのに
    昔からの流儀に外れる事を極度に嫌う性質の持ち主がいるのです。
    例えば、現代では罵る言葉になってしまいましたが・・・相手を敬うために「貴様」。もし偉人が現代に蘇ったとしたらきっと「???」と思う事でしょう

    1. かぼちゃ より:

      うああああああコメントありがとうございます!

      やっぱり、いますよね。なかなか、他の人の意見をそのまま多様性として受け入れられないみたいな人も。
      あるいは、それが「多様性」だと気づいてない場合もあったりだと思うんです。

      世間的に、道徳的に、宗教的に、常識として大人に厳しく「~してはいけない」と躾けられた場合、ただ、盲信するしかない状況に置かれたりして。
      それがなぜ禁止されているかを上手く説明してもらえず、「してはいけないのだから、してはいけないのだ。」としか自分も説明するしかなかったみたいな。
      厄介なことは「ご飯を残してはいけない」と厳しく躾けられた子は、将来的に「ご飯を残す人」を厳しく糾弾することにあると思います。
      なぜ「ご飯を残してはいけないのか」については色々な時代背景や社会的な事情があったろうと思うんですが、
      それらの説明がいつか失われて、とにかく理由はさておき「ご飯を残す行為」を見かけると「禁止行為に背く反社会的人間を排除せよ」とストレスを感じて攻撃行動に移ってしまう。
      みたいな。
      これもぼくたち人間が「群れ」を維持するために獲得してきた本能なのかも知れないけど、それはそれで厄介な本能ですよね。

      言葉の移り変わりもそうですね。
      ある特定の言葉が知らぬ間に「差別用語」として禁止されてたりで、創作表現が規制される~みたいな問題がぼくの場合身近に感じるやつですね。

  7. イエス・キリスト より:

    なーんだあ!単なるビジネス金目当ての記事かー

    1. kabotya より:

      そっかー!

  8. 通りすがり より:

    多様性と言ってるとおり、人それぞれ。
    人を長生きさせる、人類を存続させる、といった極論だけに絞れば確かに貴方の言ってる事は間違っていない。けど正しくはない。貴方の基準で言えば正しいとなるようだけど、貴方の基準は正しくないので結果として間違っている。

    そんな人が長生きした先は、そんな人類が存続した先は、結果として増えれば増えるほど混沌とした世界になる。そんな混沌をもたらす様な遺伝情報をインプットした遺伝子を残す事が正しい訳ないですよね。もちろん生きる資格がないと言ってる訳ではない。

    自分の人生がどうであろうと過去を振り返り、事象の原因や結果をよく分析し、己が過ちや他者の過ちを理解し、愛と真眼をもって己が過ちを反省し、また他者に反省を促し、自身が正しいと思い込んでいた過ちを正す事もできる。

    貴方の言っている事は貴方の経験と今の貴方の「基準」からくる価値観の中では正しいけれど、本当の意味での正しい「基準」から見れば未熟で幼稚で悪意を蔓延らせる愚かな価値観でしかない訳です。それとも反面教師をされているのでしょうか。だとしたら要らぬ世話なのでやめておきましょう。そんな事をしなくても人は育ちます。

    貴方が真に目覚めますように。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      「愛」「正しさ」をどうやって獲得するか、なんです。

      全ての人間が貴方のように「愛」「正しさ」を信じられる環境に生きていれば良かった。
      「幼稚な人間」など一人もいないほうが良かった。
      「愛」や「正しさ」を獲得できた人間が、それを獲得できなかった人間を「幼稚だ」と淘汰していくのならばそれは良いのです。

      それが実現するなら、「幼稚な人間」などいなくなり、美しい世界が完成する。
      全人類が例外なく統一され、平均化されるなら、その幼稚である人類を「愛がない」「正しくない」と滅ぼしていく手段を取ればいいと思うんです。
      劣っている人間を消していけば、優れた人間のみが生き残る。
      暴力でもいいし、教育、洗脳でもいい。
      ぼくもそうあるべきだと思います。
      環境に適応できた人間のみが生き残ればいい。
      「愛がない」「正しくない」個体などいないほうが良いに決まっている。
      貴方の言うように、貴方は「正しい」。

      だけど、例えば、Ifの話ですが、運命の間違いによって、幼少期の「貴方」や、「貴方の家族」、或いは「愛する友人」は圧倒的な暴力に、為す術もなく従わざるを得なくなった。
      服従するしかなかった。
      「貴方たち」は「愛」「正しさ」が通用しない世界に突き落とされた。
      そのあとに、「貴方たち」の前に立ち塞がるのが、今の貴方のように「愛」「正しさ」を獲得できた恵まれた人たちなのだ。
      今の貴方が、運命の間違いに晒された架空の「貴方たち」の首にロープをかける。
      架空の「貴方」は今の貴方の暴力を受け入れるのだろうか。
      「貴方の家族」は「愛がない」という罪状によって吊るされた。
      「貴方の友人」は「正しくない」という罪状によって吊るされた。
      そして「貴方」の番が来た。
      「私は、愛を獲得できなかった、正しくなかった、幼稚な人間であった。このロープは正義のロープであり、このロープが首にかけられる私は幼稚な人間故、この死は正しい」
      貴方は「貴方」を吊るす。正義は執行された。
      貴方は彼らに向かって「目が覚めますように」と祈る。

      ぼくはそういう世界が来てほしくはないんです。

      貴方の「愛」も「正しさ」も、「愛がなければならぬ、正しくなければならぬ」という「学習」によって後発的に獲得した気質だと思うんです。
      「遺伝情報」ではなく、「環境による学習」だと考えているんです。
      (むしろ、人類最初の七人は残虐な遺伝子情報を持っていたとまで聞く)
      その「学習」は全動物に当てはまらない。
      「愛」「正しさ」を「学習」できたのは、真に幸運だった。
      どのタイミングで、誰から教わりました?
      どんな環境でした?
      そして全人類にその環境は行き届いていますか?
      叶うなら、貴方がその「愛」「正しさ」を獲得できたように、他の「愛」「正しさ」を獲得できない人間に行き渡らせて欲しい。

      反面教師というのは、良い読みです。
      ぼくたちは貴方とは少しズレた環境に生きてきた。
      だからこそ、自分で考える機会を授かった。
      幼稚だからこそ、純粋に疑問に思えたという意味で、幼稚な方が幸福かもとは自分を肯定してますよ。

      まぁまぁ、何にせよ!
      ぼくのブログが心に引っかかった(少なくとも全文を読んでいただけた!)というのは、嬉しい限りです!
      ありがとうございます。

  9. ポンコツ大学生 より:

    いわゆる悪というものがこの世から消え、現在あるすべての課題を解決したら人は人でいられるのか。多様性が存在しているから意思が必要なわけで、多様性があるからこそ問題が存在する。問題を解決するということはある種多様性を排除することだと思う。テクノロジーや論理は飛躍的に進歩を遂げている。人類が滅亡さえしなければ遅かれ早かれ理想に近い社会が実現するだろう。解決すべき問題がなくなったら人類はどうなるのだろうか。
    多様性という言葉を聞きふと疑問に思ったことをコメントしました。記事と少しズレてすみません。この記事を読んだ感想としては正しいか正しくないか判断しかねる内容だと思いました。おそらく哲学的、心理学的に考えるか社会的に考えるかで見た方が変わるのでしょう。私は基本的に前者で物事を考えるのでこの内容を肯定的に捉えることができますが、後者を重視している人はおそらく否定的になるのではないでしょうか。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!
      おっしゃる通りで、多様性があるから、問題、というか、競争があり、競争があるからこそ、うまく進化なり適応なりができていくと考えてるんです。
      そして、仮に進化の果てで、理想的な、完璧な、安定した社会が完成した瞬間、だけど、あとは、人間は滅びるだけで「役目を終えた状態」になるんだとも考えてるんです。

      ステラーカイギュウという動物が昔いたんです。
      詳細は省きますが、人類に滅ぼされました。

      とても優しい動物だったみたいです。
      仲間が殺される中、その仲間をなんとか助けようと集まってくる。
      そういう習性を獲得していたようです。

      多くの人は「人間」という動物の残虐性を説明する材料としてこの逸話を出すけど、
      自分は少し違って、
      「仲間を見捨てて、逃げ出せる個体がいれば。
      あるいは人間を問答無用で襲う臆病さ、攻撃性のある個体がいれば、あるいはもう少し結果は変わった」
      と考えてるのです。

      なんていうのか、この絶滅したステラーカイギュウは、「問題が解決した」状態だったと言えるはずなんです。
      全ての個体は優しく、愛のある、美しいコロニーを築いていた。
      そのはずなんです。
      絶滅するはずがなかった。
      完璧だった。
      万一、優しくない個体、わがままな個体がいれば、コロニーから追い出せば良い。
      追い出された「優しくない個体」はつまり、競争にことごとく敗北していった。
      そして問題が解決して、全ての個体が「優しい個体」の理想的な社会が完成した。
      だけど、結果として、外部からの思わぬ環境の変化(この場合は「人間」という侵略者だった)に晒されたとき、
      対抗手段がなにもなく、結局絶滅の途を辿った。
      理想的な社会が完成したのに。
      対抗手段がなくなっていた。
      「遺伝子」は本当に容赦なく、その「理想的な社会」にたどり着けないよう、絶滅させないよう、
      ぼくたちに競争を強いているんじゃないかと。
      ふと、思うんですよね。

      まぁ、なんか、きっとどこかでもう少し詳しく、話を掘り下げて、もっと「人間」という動物を論じたいなって思います。
      こうして2016年の記事にコメントしていただけて、本当に嬉しいです。
      ありがとうございます!

  10. 名無し より:

    他の誰かも言っていますけど、幼稚な考えです。
    貴方みたいな人、たまにいます。なまじ真剣に考えて考えて出した結論だからこそ揺るぎないものになっている。それがこのコメント返しにも見られます。一見多様性を受け入れている様でその実は『多様性であらねばならない』という多用的でない性質が見られます。

    貴方の理論だと、極論人間は何をしても良くなってしまう。それがいわゆる混沌で、その混沌すらあって然るべきとなってしまう。リヴァタリアニズムが行き過ぎている。

    貴方に何を言っても無駄だろうし、恐らくたくさん言われてきたからこそ麻痺してしまったのか或いは傷ついてはいるがそれを見せまいと強がっているかのどちらかでしょう。コメント返しを見ていると後者であると思いますが。

    そしてまだ恐らく若いだろうね。人の考えって緩やかに変わっていくものだけど、多くの人にとって貴方の存在がよい方向に変わってくれる事を祈ります。

    危険思想に一歩踏み入れてますよ。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      人は何をしても良い、というよりも、良いも悪いも何もない、人はそれをする、というのが考えです。
      そしてその状態を混沌としているか、というと、混沌としていないと思っています。
      事実、今、すべての人は例外なく、良いも悪いも何もなく、それをしている。
      そして今の世界のどこを切り取っても、混沌、なんてない。
      おおよそ現代日本で生きるぼくたちの眼から見て受け入れがたいものであっても、そこには確かに秩序があるようなんです。
      人間は特別な存在で、他の動物よりも優れていると思えばこそ、受け入れがたいかも知れないけど、自分は、人間は人間以上のことは何もできないなと考えています。

      自分はなんというか、傷ついてはいないんです。
      「多様性であらねばならない」とまで考えていないです。
      たとえば、固有種が、外来種によって淘汰されたとき、ぼくはそれはとても自然だと思う。
      人間が持ち込んだから人間のせいだ、みたいな意見があっても、自分は別にそうは思わない。
      適者生存によって、正しく滅んだ種と、生き残った種があっただけなんだと思うんです。

      だから、「多様性など認められるものか、我こそは正義なり!」と、敵を殺す行為も、まぁいいと思うんです。
      特別におかしな行動とも、間違ってるとも、思ってない。

      それこそ、多様性なんて毎回認めてたら種は滅んでしまう。
      思想や種を統一したほうが有利に働くときがある。
      強固な一本の思想のもと、団結して困難に立ち向かう方が、
      多様性であっちこっちの意見を全部汲み取ろうとして何も行動できない場合よりも、
      はるかに有利に働くことがある。
      それも含めて、多様性だと思うんです。

      それはさておき。

      ある魚は、テリトリーを持っている。
      そのテリトリーに入ってきた同種の魚を、攻撃する特性を持っているんです。
      テリトリーに入ってきた他の個体を殺そうとするんです。
      自分のテリトリーから出ていかなければ、別個体を殺すんです。
      これは、テリトリーに入ってきた個体に対して「ストレス」を感じて、そのストレスに対する反応として、「攻撃」をしているんじゃないかなと。
      この魚は、何も考えていない。
      考えることすらできない。
      操られている。
      遺伝子に。環境に。
      一見して自分の意志で個体を攻撃しているように見せかけて、何もそこに意思はない。選択肢はないな、と思うんです。

      この魚は、悪い魚だから、殺してしまうべきだ。
      この魚は、混沌としている種族だから、滅びるべきだ。
      そう予測して、そうなるように介入することが「成熟した理想の社会」なのかどうかなんです。
      そもそもこの魚が悪いのか良いのか、よくわからないんです。

      ある人がいる。
      その人は「悪人は殺すべきだ。理屈は知らぬ」と考えている。
      だから、「悪人などいないよ。勝手にぼくたちが、そういう基準を設けているだけで、実際には生物的にその基準が有利に働いたからそれを採用しているだけだよ」という意見を言う個体を見たときに、
      「幼稚な人だ。危険思想一歩手前ではないだろうか」とストレスを感じて苦言を呈するとして、
      それは別におかしくないと思うんです。

      ぼくが正しい、というわけじゃないんです。
      貴方が正しい、というわけじゃないんです。
      テリトリーに入ってきた別個体を攻撃する魚を見ても「正しい」と感じないように。
      ステラーカイギュウが絶滅したのを見ても「正しい」と感じないように。

      海を見ても、山を見ても、人を見ても、何を見ても、混乱なんてどこにもない。
      とても自然に、どうあがいても生きているし、死んでいってるように見える。
      争うという選択を取って未来への生き残りを賭ける個体、協力するという選択をとって生き残りを賭ける個体、色んな個体がいるなと。
      そして、いずれも同じように生き残ろうとして戦っているなと。

      個人的な一番の主張は、結局、
      叶うなら、選択肢をせめて、弱い者にも、あってくれって思うんです。
      サイコロで「1」を出した人に、かわいそうだからと「5」を与えるのではなく、もう一度せめてサイコロをふるチャンスがあってほしい。
      そもそも、サイコロに細工をして、「1」が出ないようにするようインチキはできないかな?
      とかも考えるんです。
      でも、誰も「サイコロで1を出すのは、その人がマヌケで努力不足だからさ」とサイコロの正体を見ようともしないし、その人をいかに残虐に罰して潰すかと言うことを考える。
      その残虐に罰しようとする彼らも、でも、結局、群れ(テリトリー)に発生した敵(群れを脅かすストレス)にさらされて、それ以外の選択肢がなく、攻撃するように操られている。

      危険思想。というほどテロではないと思ってたんです。社会的混乱をもたらせるようなものはない。
      ぼくは基本的に「人は、まぁ」って言って、それこそ意見があっても声を上げることすらあまりない。

      ただ、思想に共感してほしいというより、人の考えるきっかけになっているのであれば、幸いです。
      また、きっとブログ、で詳しく、本当に、人間ということを、或いはブログでなくても、どこかで誰にも伝わるように、論じていきたいなと思います。

  11. とあるリバタリアン より:

    昔の記事ですが、とても刺激になる話をありがとうございました。
    私も「悪人」も「善人」も差はなく、いわゆる「悪の種」のようなものはみな持っていて、環境次第であると。
    遺伝子もミームも集団選択的で、善悪論もべき論も役に立たないと。
    かつてスパルタで戦えないものが殺されていたように、「善」とされる価値観は社会次第で、「悪」を他人事として排斥するのではなく、それに自覚的でなければならない、寄り添わなければならないとずっと思っておりました。
    と同時に、この考え方がマイノリティであることも自覚しており、いつか卒業するべき思想の袋小路である気もうっすらとしています。
    普通にものを考えられる方々が羨ましい限りです。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      あなたの考える通りだと思います。
      自分も、寄り添いたいってのが、一番しっくりくる言葉ですね。
      結局「寄り添う人がいる」ってのが一番「悪」の発生を防げるんじゃないかなと。
      それがもう一度、サイコロを振るチャンスにつながる気がするんです。
      おそらく善性を信じている人たち、人には素晴らしい力がある、生まれながらに誰もが愛をもっている、みたいな言葉を説く人たちには、
      家に帰れば寄り添う家族がいて、友人がいて、恋人がいて、しかもそれが当たり前過ぎて、
      「それを手に入れられない環境の中で、正しく生物として適応して何十年も生き抜く」ということを想像するのが難しいのかも、と思うんです。
      それがどんな個体に育つのか、というと、まぁ、かなり厳しい個体になるようです。
      そして持ってて当たり前の「愛」にそぐわない個体を見つけたとき、自分自身の学習してきた知識の範囲で説明できる言葉が「この個体は特別な悪なのだ。例外なのだ」として、
      それさえ排除すれば社会はまた愛のある個体だけになると考えてしまっているのではないかと。

      その排除した「悪」が、実はどこにでもいる普通の人間という動物で、誰しもがそうなる可能性があり、ただただ、誰もが持っている「悪の種」が芽吹いてしまっただけの個体なのだ、
      とは考えが及ばないのだろうと思ったんです。
      仮にマイノリティではあっても、自分は一人でもあなたのような「弱い人に寄り添おう」とできる人の方が、遥かにこれからの時代に必要な人だと考えています。
      「寄り添おう」なんて誰もができることじゃないです。
      卒業、しない方が良いかな、と思います。
      個人的にはあなたの考え方をこそ、大事にして欲しい。
      今後も生きていけばどんな人でも、色んな人の影響を受けて考え方はその都度、色々とアップデートされていくにしても、
      個人的には、卒業なんてできないまま、弱い人に寄り添う人であってほしいですね。

      ってかスパルタそんな過酷な世界だったんですね……!?
      勉強になりました。

  12. 孤独なニート より:

    大概の人間は自分の豊かな生活が脅かされない限り正義や悪なんてどうでもいいと思ってますよ。日本で犯罪犯さない理由は「損」だからです、独り身ならボーっとしてても生活できる豊かな日本だからやらないだけで、くだらない悪戯や学校のいじめなんかでニュースが埋まるような国ですから、すぐに後ろ指さされ、さらし者にされますからね。
    殴られ馬鹿にされ暴力的なことが評価される環境と、みんながきちんと座っていわゆる道徳とマナーとか守ることで人間としての尊厳と社会的評価が受けられると教わってきた人間とは見る世界が違う。
    多くの人間は得だから法の中にいるだけしょ、戦後は多くの人間が犯罪者でしたからね。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      おっしゃる通りで、「損」ってのもそうですね、多くの犯罪は割に合わない、ってよく聞きますし。
      法律を守るために人間がいるのではなく、人間を守るために法律がある、というか。
      だけど無法者にとっては「よくわかんないけど守らないと叱られる」みたいな煩わしいルールだと学習してるときが多いですね。

      学習、ってか、勉強って、かなり面白いなと大人になってから気づくんです。
      だけど、子供の頃はちっとも気付かなかった。
      例えば漢字の練習はノートいっぱいに「勉強」って漢字を書くことだとして、それは、自分にとっては右の小皿に盛られた大豆を箸を使って左の小皿に時間内に移し替える作業と等しかった。
      楽しいか? って聞かれれば、楽しくないんです。
      でも、それが正しい勉強で、皆小皿に大豆を移し替える作業を頑張ってて、上手に時間内にこなしていく中、自分だけが特別劣っていてそれができなくて、叱られて、
      で、勉強が嫌いになってしまった。
      実は、あれば勉強をしてたんじゃなくて、ただの作業だったと感じるんです。
      でも、多くの勉強は、今もそういった作業が重要視されていると感じるんです。
      きっと、多くの子どもが今も「勉強は面白くない」と大人に教わって、嫌いになって、
      そして勉強をやめて、自信をなくして、孤独になって、体ばかりが大人になってしまって、
      気がつけば選択肢がなくて、「悪人」になるパターンもあるんですよね。
      そういう人が選択できる環境が、「殴られ馬鹿にされ暴力的なことが評価される環境」だったりしてしまうんです。

      責任は誰が取るべきか、
      まぁその勉強をしなかった子ども、暴力的で不勉強な「個人」が取るべきだという論調が多いですが、
      自分は、「ぼくらにも責任があった」と、感じるんです。
      難しいですね。

  13. 今29歳初就職 より:

    淘汰されない存在はないからこそ、種の多様性の広がりを肯定するということですか?
    全てが淘汰されるなら宇宙すらもなくなりそうですね、絶対というものはない以上人間は永遠の存在なるかもしれません
    私の文は矛盾の意見をもっていますが、私は考え方を増やしています
    統一性がなく合理性がない、ですが私自身数多の考え方を楽しみたいのです。
    私の意見はサイト主の考え方はやめるべきでしょう人間は長い時間の中で滅びる可能性が高いです、だからこその多様性
    虚しく感じます
    矛盾しますが考え方を増やすべきです、つまりサイト主の意見を肯定します
    楽しみましょう

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      詩的な部分もあってちょっと難しいですが、
      長い時間を見て「どれほど頑張っても、いつか死ぬから虚しい」という意見はまぁよく聞くんです。

      ある魚は一度の産卵で1万の卵を生むんです。
      そのうち無事に孵るのはその中でもほんの数尾程度なんです。
      何のために1万もの卵を産んだか、と考えるんです。
      無駄じゃないですか。
      数尾程度しか孵らないのであれば、1万も産卵する必要はない。
      10個程度産卵しておけばコストも少なく済む。
      魚はやっぱり無駄なことしてるなぁ、愚かだなぁと。
      そう考えるんです。
      死んでいった9990個の卵ってまったく無駄な卵だったと。
      あるいは卵は魚に向かってこう言う。
      「価値のない無駄な命を! 勝手に生んで! おまえが産んだせいでおれはこんなにも苦しい! いつか食われて終わるために生まれてきた!」

      可能性や、多様性は、これら卵みたいな存在で、
      卵の視点から見れば、結局孵ることも叶わない無駄な自分自身だったと内省ばかりするけど。
      広い海の中ではかなり合理的に産み落とされた一個で、
      1万という数字がその合理的な価値を霞ませるけど、
      リスク分散という容赦のない意味を背負わされているんだと感じるんです。

      人類なんて、宇宙規模で見れば本当にどこにもたどり着けない種族だと思うんです。
      どんな動物だってそうです。
      なんだって滅びるはずなんです。
      でも、滅びたものは無駄じゃなかった。
      勝手に一部の人たちが滅びたものの価値を「価値がない」という「マイナスの価値」を見出した、って感じだなと思うんです。

      全ての命は、ほんの一分一秒でも、最期の日を遠ざけるために、
      その一分一秒の時間稼ぎのために支払われるコストなんだと、自分はどこかで感じていて、
      あらゆる可能性は、その一分一秒の時間稼ぎを担っているんだと。
      死んでいった全ての命も、志半ばで途絶えていった思想も、全てはその最期の日を遠ざけるためにあったと、
      自分は感じているんです。
      ぼくらの行動、どれだけ下らないように見えても、結局嫌でもなんでも未来に繋がっていて、
      そして人類最期の日に、ぼくらの見知らぬ最後の1人が死ぬその瞬間に繋がっているんです。

      きっとその人は手紙を書く。
      孤独に苛まれて、居もしないのに、居るかも知れない誰かに向けて、
      読まれることもないのに、読まれることを祈って、
      乏しい知識を使って、手紙を書くんです。
      それは文字じゃなく、絵だったかもしれない、
      本当に拙い最後のメッセージだと思うんです。
      その最後の人の、手紙の情報量を増やす、みたいなのが自分の意味だと感じています。
      全てその手紙に収束する。
      手紙は、どんな形なのかはわかんないです。
      石にチョークで書かれたメッセージかもしれないし、
      電子情報として規則性をもって外宇宙に向けて発射された信号かもしれないし、
      だけど概ね、そのメッセージを送るための時間稼ぎなんだと。
      そういうロマンチックでちょっと恥ずかしいですが、そういうのを想像するんです。

      そう考えると、自分の場合は、虚しくは感じないんです。
      自分の場合は、ですけどね!
      まぁおっしゃる通り、あくまで滅びるし気負わずのんびり気楽に楽しむのが一番ですよ!
      失敗するかも、なにか良くないことが起きるかも、なんてのは杞憂で終わるのがほとんどで、
      実際に何か悪いことがあって死んでしまっても、それはそれで意味があった、みたいな。
      自分語りばっかりになっちゃいますが、そういう考えです。

      まぁ、楽しみましょう。

  14. abstract より:

    病気だな、その感覚こそが記事中で指摘されている適用の産物だと自覚できない。まして、インターネットの中でこの記事に辿り着き、読んでいる時点で何らかの関連キーワードを持ってるはずなのに、全否定する。そうやって相手が異常とか下等と断定して、内弁慶的に勝ち誇った優越を得るのはネット民の常だけど、その事を分かった上で発言するのと、自分が何を抱き何を発しているかも分かってないのとでは意味が違う。同様に、幼稚である、間違っている、混沌はいけない、という正義(あるいは”大人”)の真似事で、上から目線で自分こそが正しいと思い込んでコメントする事も適用の結果であるし、「何してもいい」の体現であり「多様性がない」し、「幼稚」である。私を含む誰かを批判するコメントが多かれ少なかれ含む、自分の主観を無闇に高みに持っていく姿勢よりも、筆者の方がよっぽど公平であり人間的であると思う。だって、自然界には平等はないのだから。国譲りに見られる様な元来の「和を尊ぶ」習性と儒教に汚染された現代日本人は個人主義から程遠く、「正常」である事に異常に固執する。だから「異常」な意見には気が狂ったように強い言葉を浴びせて殺しにかかる。そういう人間は大概「普通」の環境で醸成されているので異常側の感覚が全く理解できない。そして異常とはつまり少数派である為にますます糾弾されて社会にいばしょがなくなっていく。居場所がない中で適用した結果を嬉々として摘み取るのがこのコメント欄で筆者を批判する人間であって、対極や本質に能わず、浅薄に利己的に保守に走る。そこでは新しい考えは芽生えない。細胞も文化も自然環境も毎日新陳代謝されている。変化に適用できないものは淘汰される。正常異常、善し悪し好悪という判断基準では変化とは異常であり悪しであり嫌われてしまう。フロイト的に言えば理性で感情を制御できる我々がその色を強めていったらどうなるだろう。そこでは変化が起こらないので緩やかな滅亡が待っているだけだ。社会をダメにするのはどちらだろう。既に法を差し込んだ社会は人で飽和している。”変人”を魔女として燃やし、”犯罪者”や”異端”を正義の名の下に断罪して守り続けた邑は常に次の悪者と刑罰を求めてる。そこに理論はなくてただの感情しかない。このコメント欄で筆者を責める人間が「どこがどう危険で異常であるか」を書かずに、ただ「お前はおかしい!」と幼児のようにむずかっていることが皮肉にも証明になっている。筆者は悪人の断罪を否定していないが、正義というものの考え方に警鐘を鳴らしている。そこに正義を振りかざすのはナンセンスだ。自分は自分の言ってる事が正義的であることを露悪できるが批判者にはできない。自分の非を認められない正常な人達は征服を繰り返したあの教徒達と同じだ。21世紀にもなってそんな事をしてるんだから救いようがないね。

    1. kabotya より:

      コメント、ありがとうございます!
      なんというか、色々と慮っていただいての言葉なのだろうと。
      本当にありがとうございます……!
      全然関係ないけど、文章がとても、たくさん本を読んできた人の文章だなって感じさせる書き方だなと。

      おっしゃるとおりに「正義」って恐ろしいものだなと、自分は感じるんです。
      「正義」って、ぼくたちから「責任」を奪い取るものだと感じているんです。
      ある意味でどんな人間にも行動力を与えてくれる、それは「勇気をくれる」と言い換えてもいい、素晴らしいツールとも言えるんです。
      だけど、あまりにも行動力を与えすぎて、ぼくたちを時に暴走させてしまうものだとも、感じているんです。
      人に暴言や暴力を振るう行動力を与え、暴言や暴力をふるった責任を自分の代わりに背負ってくれる、
      とても都合の良い存在だろうと、色々な人々の振る舞いを見てて思うんです。
      「正義」を執行しているときは、きっと誰もが気持ちよくて、やめるにやめられない。
      排除したい敵がいたとして、その敵を一方的にぶん殴れる「正義」があったなら、ストレスをすごい解消できる。
      ついつい、悪人を探してしまうのもわかる気がするんです。
      幼稚だと罵られたとき、自分もまぁ、もっと、いくらでも罵れたなと。
      だけど、きっと気持ちよくって歯止めが効かずに、どんどんエスカレートしそうだなと。
      なかなか、思ったことを表現する難しさを、まぁ感じますね。

  15. iterater より:

    貧乏くじを引いた異常が自ずからそれを悲観する様な悲しい思考の押し付けから異常者は脱却して力を発揮した方が幸せだと思うね。
    普通はそんなにえらくないし、偉いことは凄い事ではない。
    異常はえらくはならないかもしれないが普通よりずっと凄くなれるポテンシャルを持っている。
    異常は正常に従順になる様に求められるがそれを跳ね除けて、異常を強みとして生きて欲しい。
    だから自分はこのコメント欄で異常を叩く典型的な思考停止普通野郎どもを許さない。
    誰に対しても言えるが、特に正常サイドに対して常々耳にタコができてもなおいい続けたいのは、
    お前はお前が思ってるほど大した人間じゃない、
    ということ。
    悔しかったら10億稼ぐなら、歴史に名を残すなりしてみろよ。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      自分も同じ意見で、行動によって、人は変われると思うんです。
      実際、自分も行動によって色々なものを変えてきた。
      成功体験によるバイアスといえばそうだけど。
      サイコロで1を出したことを一生嘆いても、結局、人生は好転しない。
      とにかく、行動して、もう一度挑戦することを、サイコロを振らなければ、その個体は破滅する。

      だけど、自分は行動を取る人間だけど、行動が取れたというのも、ある意味で幸運だったと感じるんです。
      よく「昔は苦労したけど色々あって大成功をした!」という話を聞いても、
      共通して、「自分を助けてくれる人がいた」「お金があった」「時間があった」みたいな幸運がなんか存在するんです。
      独力で全て解決した人間て、皆無なんです。
      だけど、その外的な幸運って誰にも用意されているようなものでなく、そういう幸運に巡り会えるというのは、ほんの一握りなんです。
      なんというか、孤立して、最悪の結末を迎える人間は、本当に、巡り会えるはずもなく、最悪の結末を迎えるんです。巡り会おうと外出すらしない。本も読まない。
      絶望的な環境に置かれた人間に「宝くじを買え! 当てればなんとかなる! どうして宝くじを買わないんだ?」というのと同じくらい、
      「努力をしろ! 行動をしろ! どうして行動をしないんだ」とは言いづらいんですよね。
      努力ができる、行動が取れる、という普通のことが最早普通ではできないレベルの人がいるんです。
      まずは、その絶望的な環境に置かれて適応した個体の思考や行動パターンを変更させる、努力ができる、行動が取れるようになる、
      何かきっかけ、小さくてもいいので、その「きっかけ」の一つが必要だと感じているんです。
      それは意外と、あなたのような、「人とちょっと違う人」を笑わない人、むしろポテンシャルがあると励ます、そういう人が、その「きっかけ」になったりするかも知れませんね。
      今はそうじゃなくても、いつかそういう巡り合わせで「きっかけ」になったりとかも。
      意外と、本当にたくさん、身近に、
      行動ができない、努力ができないと、そしてそんな自分を酷く責めている、サイコロで1を出した人が、
      ゴロゴロいるもんなんだと思うんです。

  16. 救いは無いんですか より:

    私はこの歌を聴いたとき、いまだかつて無い程「二度と聴きたくない」という嫌悪感を味わいました、しかし別に歌自体は嫌いな訳では無いのですが、聞いた瞬間脳内で映像が再生されるので、聞く度に辛いです。虐待されているのも辛いのに、さらに学校でも虐められているとか、あまりにも救いようが無さすぎて辛かったです。しかし実際にありそうなのも事実です。虐待されている側も被害者だけれども虐待してる側も被害者、この際裁判では精神異常として死は免れるとしても社会的地位は下がっています。子供は親を選べない、まさにその通りです。サイコロの1は自ら出した結果ではあるが、望んで出した結果ではない。私達は運良く1が出なかったけれどもそれで良いとはいかず、1を出した人を助けるべきだと気付かされました。私はこの曲を聴いた後にこの文を見ると、さらにこの歌の素晴らしさを感じました。
    本当にこの曲を作ったかぼちゃさんは素晴らしいと思います。私がいままで聴いた中で1番感動しました。聴くのは辛いけどいろんな人におすすめしたいぐらいです。私はまだ未成年ですから親の気持ちは一切わからないし、多分これからも子どもを虐待する親の気持ちは理解できないような気がします。下手な日本語ですいませんでした。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      ストレートに褒められると、罵られるよりも遥かにお返事が難しくなってしまう。
      とにかく、ありがとうございます!
      嬉しいです。

      救いがあるのなら、あの曲を通して「誰かを助けよう」というほんのちょっとしたトゲのようなものを、
      あなたの心に刺せたなら、それが一番、ある意味で正しく「救い」があったと言えるだろうと思うんです。

      実際には、殺される子犬も、その鳴き声に震える小さな子どもも、いなかったんです。
      でも、その子どもの体験が脳裏に浮かぶほど、曲を通してあなたが追体験したのであれば、
      そして、その後に、追体験を終えて、現実のあなたに戻ったとき、
      「救われてくれ。こんな体験、あんまりだ!」と願ったなら、それが一番救いだろうと思うんです。
      実際にニーナという犬を喪った、あの曲の主人公は、実は「もしかしたら」の世界を生きる、あなた自身だった、ということでもあります。
      あなたは、あなたを助けるために、何かしたいと願う。
      それが「救い」としては十分だなと。

      仮に、
      曲中ではニーナに「会いに行く」ことを示唆する結末ではあるけど、
      実際にはそんな行動はとらず、ずっと生きながらえて、大人になったあの子どもが、
      もしかしたら、明日にでも、あなたの隣に現実に現れる。

      なんとなく、あなたが大人になったとき、あなたの周囲に少しズレた人がいるんです。
      例えば、極端に体臭が酷いでもいいんです。
      毎日同じ服を着ているとかでもいいんです。
      コンビニの前で朝から晩までずっとフラフラしてるとかでもいいんです。
      皆がその個体を見て、指を差して嘲笑うんです。
      努力不足とか、臭いとか、変態とか、狂ってるとか。
      そのときに、あなただけが、皆にまざって指を差して笑うわけにはいかないと、
      そういうセーブがかかるなら、あの曲はもう十分すぎるほど役目を果たしたなと感じるんです。

      まぁ、ありがとうございます!!
      本当に嬉しいです。
      今後も作曲がんばりますね!

      1. ぼけなす より:

        はじめまして、人生最初で最後のコメントです。
        共感させていただきます。
        ありがとうございました。

        1. kabotya より:

          コメントありがとうございます!

          最初で最後、きっと、「コメントをする」って行動にとても責任を感じている方なんでしょうね。
          言葉って、ぼくも慎重に選びながら発信するようにしていますが、それでも勇気がいるものだと痛感するんです。
          そういう意味で、あなたも、とても勇気を出して、ぼくのこの記事にコメントしていただけたんだと思うんです。
          本当に嬉しいです!
          なんというか、ありがとうございます!

          ぼくが正しいわけではなくとも、誰かの心の小さなトゲにでもなって、少し考えるきっかけになれてるのかもと思うと、すごく書いたかいがあったなと。
          ありがとうございます!

  17. 通りすがり より:

    法律っていうのはまさに特定の層にとって有利な状況を作るため(特定の層にとっては不利な状況になる)の装置だけどね。
    法律を作っている人間、擁護する人間は悪とは言われないが、特定の人間にとっては間違いなく害悪になっている。
    そして、法律を破ろうとする人間は間違いなく悪だと言われる。
    中立的な立場から見ると、法律を擁護する人も破る人もお互いに迷惑をかけあっているだけなので、どっちも悪人にしか見えないねってのが感想です。
    そういう意味では、私からすれば人間は全員悪人なので、悪人がいなくなれば人類が滅びるという結論はあなたと一緒になります。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      性善説も性悪説的な話でしょうか。
      自分はちょっと意見があって、

      法律は基本的に社会の利益を目指して設計されてる、って考えているので、
      時代によって、場所によって、社会が変われば法律も変わるし、
      その社会に所属する人が変われば、法律も変わると思うんです。

      その社会に所属しない、社会からの利益をそこまで受けていないと感じる人にとっては、
      「なんか知らないけど守らないと怒られる邪魔な枷」だと考える人もいるようなんです。

      子どもを躾けるに際して、たとえばアリを踏み潰す子どもの習慣を辞めさせたい親がいたとして、
      「アリさんがかわいそうでしょ!」という言葉を使ったとして、それが正しいか? なんです。
      実際にはぼくたちは例えばアリを殺虫剤で殺すシーンは多々あるし、ヒアリという外来種を駆除するし、
      それに対して「かわいそう」とは感じないんです。
      同じように、「アリをかわいそうだと感じない場合は殺していい」のか、ということを子どもが学習して、
      かわいそうか否かは主観によるので、子どもが共感性の少ない個体だった場合、アリを引き続き殺し続ける。
      それを親がさらに止めたくて、いよいよ大きな声で、とにかく辞めさせるために暴力措置を取る。

      アリを踏み潰すことが「悪いこと」だからやめるべきなのか、というとそうではなく、
      ぼくたちは容赦なくアリを殺すこともあって、ただ、子どもがアリをいたずらに殺すシーンにおいては、
      「アリとは弱い者のメタファーである。弱い者を力のある者が、一方的に害する行為を良しとする場合、アリを殺すお前もまた、力をもったものに一方的に害される恐れがある。
      これを防ぐには結局、弱い者を、力があるから、楽しいから、などの理由で害する行為を社会全体で禁止する必要があった」
      とか、そういう説明を子供に対して、伝わるようにしなきゃいけないなと思うんです。
      でも、大人でそういうことができる人はほぼいないし、
      悪いことがあったとして、それが何故悪いのかなんて一々意味を考えて説明するより、
      「悪いことしたらおまわりさんに逮捕されちゃうよ!」
      で片付けたほうが手っ取り早いなと。
      それらの教育を施すと、ただなんとなく違法≒悪みたいなイメージは確かにつくかなと。
      法律は本当に容赦なく、正義でも悪でもなく社会全体にとっての利益しか求めないし、
      社会全体の利益のためには個人の利益を守らなければならないから、個人を尊重するのであって、
      アリを殺したい、という個人の意見はしかし、抵抗できない弱い者を一方的に害する者がいない、という社会全体の利益のために、
      まぁ、禁止されている。そういうのが法律だと、そういう感じに考えています。
      あくまで、社会利益を守るシステムでしかないと。

      更に、自分にとって「正義」を定義づけると、これは敵対する存在を暴力で攻撃するときに、
      心理的なストレスがなく暴力を振るえるようにする、リミッター解除の裏技みたいに考えています。

      つまり、攻撃していい理由があれば、人はどこまでも攻撃的になれる、その攻撃していい理由が、「正義」なんだろうなと。
      戦争するとして、敵を銃で撃ち殺すに際し、ところが銃撃戦のたびに「人を殺してはならない」なんてためらっていては、
      その間に敵に返り討ちにされてしまう。
      これを防げるなら、「守るべきもののため」とか、「敵は残虐な鬼か、人ならざる何か」とか、そういう言い訳を徹底しておかなきゃならない。

      自分の感覚としては、最初に敵がいて、そいつを殺しやすいように「正義」を開発して、その結果、自動的に「悪」という概念を相手にレッテルを貼ることで後から発生しただろうと。

      ぼくは「悪人」というのをそういう意味で、正義によって一方的にラベリングをされた弱者だと、ふと目を細めて見ています。
      逆に「正義」は、暴力を振るいたい人の言い訳にしか見てないところがあって。
      同じくらい暴力を振るう人は、誰も例外なく、自分が相手にいかに暴力を振るっていいかを、正義として理由付けているなと。

      「人類は悪」と問われれば、胸を張って言えるのですが、
      「人類は悪だ、と主張する人間がいるなら、その人はなにかの理由で、人を、特に周囲の人、自分が見てきた人に絶望していて、人のことを嫌いになってしまっていて、
      どこか、人という種族全体を攻撃したくなっている人だ。実際に人類が悪か、正義か、それらは一切問題じゃないし、それらを問題に感じる人間が一定数いるだけで、
      善か悪かは実際にはどっちでもない」
      と思ってます。

      まぁ、個人的な意見ですけど。
      あまり、悪人探しに躍起にならない方が良いかな? って感じですね。

  18. 日本社会を構成する奴らはまず頭を下げろ より:

    社会の根底が共存であることを鑑みると全部は享受できません
    皆がせめて最低限度のモラルマナー知識及び躾を受けて大人になることを祈ります
    はっきり言ってそれができない社会だったから優生保護法みたいなものが認可されたんだと思いますが

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      そうですね。
      社会に帰属するのであれば、最低限度のモラルマナー知識及び躾を受けてほしいとぼくも祈ります。
      だけど、そのためにはまず、ぼくも、あなたも、最低限度のモラルマナー知識及び躾を子どもに施してきたか、という疑問があるんです。

      個体が教育を受けなかったのではなく、ぼくが、あなたが、個体に教育を施さなかった、という考えなんです。

      責任は、ぼくと、あなたで取るべきだと考えるんです。

      九九を覚えてない40歳の男性がいたら、その男が馬鹿な怠け者なのだと多くの人が主張する。
      だけど、ぼくは九九が覚えられる状況を子供に40年間用意したことが一度もない社会だったと考えるんです。

      子供が勉強をしない理由をぼくもあなたもよく知っている。
      怠ける原因も、その対処法も知っている。
      本だってたくさん読んで、論文だってたくさん読んで、たくさん勉強して、
      きっとぼくもあなたも、問題に対処するべく能力を得てきた。
      だけどぼくは、一度だってそれを活かしたことはないんです。
      あなたはどうです?

      極端な話、とある子どもに勉強をさせるため、親は勉強をしない子どもに暴力を振るったとします。
      それがどういう結果をもたらしてきたか、ぼくたちは知っている。
      子どもは親からの暴力(それは精神的な暴力も、肉体的な暴力も)から逃れるために、必死に勉強をしたとして、しかし子どもが成長して、高校生くらいになって、体が大きくなり、暴力をふるっていた親に暴力で対抗を取りうるとして、
      今度は親が自分の子どもから暴力を受け続ける日が始まる。
      子どもは「暴力から逃れるため」に勉強をしていた。
      知識を得るためでも人生の目標があったわけでもなく、ただ、親からの暴力から逃れるためだけに勉強をし続けていた。
      ようやくその目的は達成された。
      暴力は二度と振るわれない。
      振るわれそうになれば、ちゃんと暴力を仕返して逃れることができる。
      それどころか、昨日まで暴力を振るっていた親は、今や、逆に暴力を恐れて子どもの顔色まで伺い始める。
      もう勉強はしなくていい。
      あとは家で好きなことを思い切りしていればいい。
      そうやって子どもが学習したとして、気がついたら独善的でわがままで、支配的で、そして勉強のできない大人になっていった。
      誰がその子どもの教育環境を用意して、誰がその教育方法を親に教えたのか、なんです。
      未だに勉強しない子どもを「勉強をしろ!」と大きな声で怒鳴る子育てこそが正しいと信じている大人が実際にいることを、あなたも知っているはずだ。
      最低限度のモラルマナー知識及び躾とはおおよそ乖離していく。
      とてもそれが社会的に肯定されている。
      とても普通の子育てだと盲信されている。
      あなたはそんな教育をすれば失敗すると知っている。
      だけど、いつ、どこで知りました?
      少なくとも、義務教育の範囲外なんです。
      大学で知るような内容です。
      それも専門的な学部の。
      知らない人のほうが多い気がするんです。
      子育てって、結局、何も知らないまま、親から施されたことをそのまま自分の子どもに返している人のほうが圧倒的に多いんです。
      自分こそは有能な正義だと、盲信している。
      何故、間違った知識が遍くのか。
      あなたが、知識を持っていながら、誰にもそれを施さなかったからだ。
      そして、それはぼくもそうです。
      ぼくは、一度も誰かに「最低限度のモラルマナー知識及び躾」を教えたことはないし、「最低限度のモラルマナー知識及び躾の教え方」を教えたことはないです。
      子育てについて知っていることはいくつかあっても、教えたことは一度もないんです。
      そもそも、自分が「最低限度のモラルマナー知識及び躾」を受けているかさえ、疑問に思うんです。
      何を満たせば「最低限度」なのかがわからないんです。
      だから、他人に教えられない。
      だけど、そのせいで今も、明日も、間違い続ける人も確かにいるのだろうとも思うんです。
      であれば、間違ってる人は、それが間違ってると教えてもらえなかった人の失敗は、
      それが間違ってると教えなかったぼくや、あなたの責任だと思うんです。
      能力の低い人間は、自分が能力を持っていないということにさえ気づかない。
      それ故に、いたずらに自信に溢れて、尚更に間違った知識を強く推す。
      あなたはそんな自信に満ちて大失敗を繰り返す彼らに、教えました?
      積極的にどこかにそういう家庭がないかを探して、介入しましたか?
      ぼくは何もしなかった。
      介入を受けない子どもが、やがて社会的に破綻した人間になったとして、
      その親は今も、親の親から受けた間違った教育を(当時はそれが正しいと根拠なく盲信されていた)子どもに施している。
      ぼくは確かに助けられるだけの知識も能力もある気がするけど、助けなかった。
      あなたもきっと、助けていない。

      「はっきり言ってそれができない社会だったから優生保護法みたいなものが認可されたんだと思いますが」

      「優生保護法」はこれ、肯定的に見ているのか、否定的に見ているのかコメントからはちょっとわからないです。
      (最低限度のモラルマナー知識及び躾けを受けていない”特定の個体”を減らすため有用だったと主張している風にも取れるし、
      社会が未成熟で最低限度のモラルマナー知識及び躾を受けておらず無理解だったから優生保護法などという見当違いの悪法を認可する社会になっていたのだ、という主張をした文章とも取れる)

      多分「最低限度のモラルマナー知識及び躾」を受けてきたあなたなら後者としての主張とは思いますが、
      まぁ、確かにかつての時代においては、前者的な主張によって、断種は度々執行されてきたようです。
      当時としては、それが最善だと人々は信じていたのでしょう。
      今やそれがどれほど社会に損失を与えるのか、ぼくたちは勉強してようやっと理解した。
      あやふやな理由ではなく、容赦のない合理性をもって、ぼくもあなたも、それを悪法と断じた。
      同様に、いつか、ぼくたちの知っている知識が、専門知識などではなく、多くの人に常識として根付いてくれればと思うんです。
      ぼくたちがそれを達成できてから始めて、個人の責任にフォーカスを合わせればいいと思うんです。

  19. 悪魔くん より:

    たまたまこのブログをのぞいたのですが、タイトルを見て真性の方かと思いましたが、Twitterの方を見たらアーティストの方だったのですね。ギャップにビックリしました。どの写真も万年の笑みですし、真性の方は死んだような目をしているでしょうから。

    本当はファンキーモンキーベイビーズのような曲を作る方じゃないの?と思いましたが(サイコパス好きじゃないとツイートしてますし)、作風で創作のいわゆるサイコパスなキャラクターのテーマソングのようなものを作られている方なのですね。

    空想のキャラクターや作風でなく本人の今の本当の気持ちの曲を歌った曲がありましたら是非聴いてみたいです。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!
      創作をする人間って「欠けている」とかそういう部分が多分にあって、
      それを創作表現によって、本来、表では出せないようなものを表現しているのかな、って時々思うんです。

      例えば、
      あなたは裸で街を歩いているんです。
      誰もが服をちゃんと着ている中、あなただけが裸なんです。
      街中から笑い声が聞こえてくる気がするんです。
      別にあなたを笑ったわけではないにせよ、すれ違う人の楽しげな会話が、
      ふとしたきっかけで「裸である私を笑ったんじゃないか?」と疑ってしまって、
      イライラしたり、恐ろしくなったりしてしまうんです。
      時には裸で歩くあなたを見て、「裸なのは関係ない! 立派に生きてて偉い!」
      そんな風に、キレイな服の人に抱きしめられるんです。
      だけど、相変わらずあなたは服を着ていない。
      「生きてるだけで偉いだとか、生まれてきた意味があるとか、そういう話じゃあないんだ。誰か、頼むから私に服を着せてくれ」
      あなたは、心からそう思う。

      服であれば良かった。
      見ればわかる。
      誰もが一目見れば、あなたが裸だと気づいて、それを理解できる。
      明らかに異常であると気付ける。
      だけど、この「服」に当たるのが、
      例えば「友達」だったり「恋人」だったり「お金」だったり「我慢する」だったり「愛」だったり「安全」だったり「親」だったり、
      そういう、ひと目見てもその異常に気づけないものである場合が圧倒的に多いんです。
      目で見ても、たとえ笑顔でも、ぼくたちはその人に何が欠けているのか、わからない。
      だから、欠けているその人は永遠に、誰にもそれが欠けていることを上手く伝えることができない。

      だけど、創作は、そういう欠けている自分に対して「欠けていない自分」みたいな空想を描くことができる。
      ティーンズ向けの小説とか見てても、女の子にモテたりとか、すごいパワーを突然手に入れたりとか、
      こういうのも「女の子にモテない」「他者とくらべて力がない」みたいな自分に対する、それらを持っている自分という空想というか。

      つまり、裸で街を歩くあなたが、しかし「きれいな服を着て街を歩いている自分」を夢想して、
      そんな理想的な自分を物語や絵や音楽で表現しているというか。
      創作は、そんな気がするんです。

      空想が、空想こそが、本当の気持ちだと。
      見た目が笑顔が素敵だから、皆、その人をあたかも優しい人だ、満ち足りた人だと高評価を下すけど、
      それはそういうのを周りの人に期待されているから、そういう表情をして生きているだけで、
      本当は相変わらず何かが欠けたままで、そして欠けているということを、表では出せないからこそ、
      それらおぞましいものを「創作」というオブラートに包んで、
      きっと、ぼくたちは音楽を作ってたりしますよ。

      良かったら公開したばかりの新曲聞いてみてください!

      新譜 https://crnr005.tumblr.com/

      まぁ何にせよ、興味を持っていただけて、本当にありがとうございます!

  20. ただの通りすがり より:

    2:6:2の法則から来ました。
    幅広い支持は受けられそうにないですが、個人的にとても賛同できます。
    種の存続という途方もないスケールで考えるとややこしいですが、人生レベルでどう考え生きていくのが効率がいいかということを考えさせられました。
    集団の中でどう見ても不要と思える人間、自分と価値観が合わない人間を排除しても、集団の中で再度不要な人間は出てきてしまいます。
    仮に世界で自分が絶対的立場となって不要と思う人間を始末していくと、結果的に自分以外は全員不要ということに行きついてしまう。
    でも実際、生きていく上で不要と思う人間や、どうしても許せない人間は出てきます。
    そういったときに、その人間は悪とかではなく、ただ置かれた環境に適応してきただけであり、全く異なる環境に適応してきた自分とは相性が悪いだけ。
    適応できるか怪しいですが、2:6:2法則で自分基準では、自分は優れた2であり、相手は不要な2です。(相手基準では逆でしょう。)
    人類という種の適応してきた形として、この比率は変わりませんが、中の人間は入れ替わることができます(比率は2:6:2とは限らず、人類が適応してきた比率)。
    記事中にも合った通り、環境さえ整えば、人は優しくも、残虐にもなれるため、不要と思う人間の絶対数は変わらないですが、不要と思った人間が不要でなくなることはあり得ます。
    これは相手の環境が変化して、相手が適応しなおすことに加え、自分の環境が変化して、自分が適応しなおす(考え方が変わる)ことも含まれます。
    こう捉えると、相手をどうこうする、つまり奪っても意味がないことになり、奪う人が減れば奪われるリスクも減るため、人間の最たる特徴である社会性につながります。(社会性の定義は記事中のものです。)
    じゃあ、人生生きていく上でどうすればいいかというと、人類という枠では定まっている比率も、その中にある集団では各比率は異なるため、自分と同じような環境に適応してきた人間が多い集団に属することが、余計なストレスがかからず効率的だという解釈になりましたが、いかがでしょうか。

    1. kabotya より:

      多分、おっしゃる通りです。
      対人関係の選択は、似た人間同士でコミュニティを形成するってのがありますし。
      ただ、似た人間同士で集まった方がストレスがないと言うよりは、
      ストレスを回避しながら集まってみると、気がついたら似た者同士が集まっていた、って場合が本質かなと思います。
      自然な淘汰が起きるので、結局、望む望まざるに関わらず、相応しいコミュニティにあなたもぼくも所属してしまうんです。
      似てない人間が無理にコミュニティに参加しようとしても、コミュニティから排除されますし。
      そして一番大事なのは、誰一人として例外なく、「怠け者な2」になる可能性があるし、「怠け者な2」だった人間が、明日には「優秀な2」になってしまう。
      これが自分の趣旨かな、と。

      例えば10人のチームでコスト10の仕事に従事するんです。10人は全員が同じような能力を持っているんです。
      ぼくたちは10人でコスト1ずつ負担すれば全て上手く行くだろうと考えていた。
      だけど、自然と仕事のコストはチームで分配されて、2人がコスト2の他者の倍の仕事量(2人×コスト2=コスト4)をこなし、6人がコスト1の通常の仕事量(6人×コスト1=コスト6)をこなし、コスト10の仕事は達成されてしまった。
      けど、2人、まったく仕事ができなかった人たちがいる。
      仕事を2倍こなした人はエースとして迎えられるが、仕事をしなかった人はお荷物として、まぁ冷遇されるんです。
      でも、厄介な問題があって、言ったとおり「能力的にはどの個体も同じ」のはずだったんです。
      「仕事をしない厄介なお荷物だ」と仕事をしない2人をクビにしたら、競合する組織にヘッドハンティングされて、その敵対組織でメキメキと頭角を現し、「何故あんな優秀な人材を我々はクビにしたんだ?!」と悩んだりするんです。
      あげくに、無能な2人を排除したから完璧な8人でコスト10の仕事を自組織は今後もこなせるはずだったのに、またしても別の1、2人ほどサボりはじめて、何故か人手不足になってくる。
      そういう問題が頻出しているみたいなんです。
      この問題にあたって、個体差の能力的な優劣がないと仮定して、何が原因なのかという研究を通して、ぼくたちは組織内の仕事の効率化を目指したんです。
      2:6:2の法則はそういうお話だったかな、と。
      まぁどうすれば効率よく、過不足なく仕事に対して人員を分配できるかとかの研究ですかね。
      詳しくはないんですが、そう理解しています。

      ぼくとしては、2:6:2の法則から考えるなら、
      必要な人間がこの世にいるわけじゃなく、
      不必要な人間がこの世にいるわけじゃなく、
      誰もがぶっちゃけた話、代わりのいる存在で、誰もが代わりになれるのだと考えているんです。

      ある日、ちょっとした事故で2倍の仕事量をそれまでこなしていたエースが一人、病気なり事故なりで使えなくなった。
      そこで仕事のコストが再分配されて、仕事がなかった人にも仕事が回ってきて、
      まぁ頑張る人がコスト2くらいの仕事を、抜けたエースの穴を埋めるべくちょっと頑張る人が1.5、他の6人が普通の仕事量をこなし、最後の一人が仕事がなくて0.5くらいのコストを担う。
      そうして仕事は滞りなく回って、しばらくして、再びエースが快復して仕事に復帰するんです。
      でも、実は能力が同じなら、今度はこのエースは復帰してももう仕事がない「不要な人」になってしまっていて、立場が逆転してしまっている。
      だって、コストはすでに全員で正しく負担されていて、今更エースにお願いする仕事はどこにも何もない。
      そういう厄介な問題でもありますね。
      一見して優れていても、一見して劣っていても、明日には立場が変わってしまう。

      ある土地にヘビがいたんです。そのヘビは口の大きいヘビと、口の小さいヘビと、遺伝的に二種類存在したんです。
      口の大きいヘビのほうが当然、有利に環境に適応しているとぼくたちは考えていた。
      口の大きい個体が結局生き残って、やがて口の小さい個体は淘汰されていくだろうと。
      だけど、結果は逆だったんです。

      その土地で、それまでいなかった新種のカエルが繁殖し始めたんです。
      カエルは猛毒を持っていた。
      食べると死ぬんです。
      だけど、カエルはちょっと大きいサイズだった。
      その毒ガエルを食べることができたのは、実は口の大きいヘビだけだった。
      結果として、その土地のヘビの口の大きさを調査してみると、年を追うごとにヘビの口は小さくなっていってた。

      一見して優秀だと考えていた口の大きいという特徴が、だけど結果として環境に適応できずに個体数を減らしていく。
      口が大きいか、口が小さいか、有能か、無能か、それらは些末な問題で、「2種類いた」というのがもっとも大事だったと思ってるんです。
      リスクを分散できて、どっちも残しておいたというか。

      仮に組織内に「必要不可欠な唯一の人材」とやらが存在したとして、自分はその存在が発生した瞬間に、組織は滅びる運命が決定するなと考えているんです。
      なぜなら、その必要不可欠な人材が事故で死んだり、組織を抜けたり、それだけで組織は立ち行かなくなってしまう。
      その必要不可欠な人材の維持のために組織に莫大なコストが要求される。
      リスク分散が必要なんです。
      「必要不可欠な唯一の人材」が皮肉なことに「最も必要のない人材」の筆頭なんです。
      そいつは、組織にとっての弱点以外の何者でもないです。
      そんな存在を作らないでいいように、ぼくたちは正しく誰もが「代わりのいる人間」として繁殖し、程よくそれぞれ機能しているはずなんです。

      口の大きな優秀と思えるヘビだけでは、種は生き残れなかった。
      一見して劣っている、口の小さなヘビが分岐として必要だった、みたいな話です。

      2:6:2の法則で今の所、あなたはきっと「優秀な2」にカテゴリされているのかも知れないのですが、
      でも「怠け者の2」も絶対に必要なんだと自分は考えているんです。

      あなたがどんな能力があって、どれほど優秀でも、逆にあなたが必要とされない無能であっても、
      人類という種に言わせれば全然どっちでもよい話なんです。
      あなたがストレスで自殺しても、幸福に長生きしても、社会は特に興味がないんです。
      あなたにも代わりがいて、あなたが今現在どういう社会的地位を得て、どういうコミュニティに所属していても、それらは重要ではなく、
      自然と相応しいコミュニティに所属し、そしてあなたは他のコミュニティに所属する他者と自分を比較したところで、優越感に浸っても、劣等感に苛まれても、明日にはその比較対象だったコミュニティに所属していたりするので、
      今現在、あなたが怠け者ならきっかけさえあれば働き者に変わるだろうし、あなたが働き者でも、ほんの些細なすれ違いから怠け者に落ちるだろうという話ですね。

  21. gak より:

    「敵がいなくなれば人類は滅ぶ」
    間違いないでしょうね。その拠り所のない「敵」が周りにいなくなると自分に向かう。
    物事を考えて、それに対処しようと前向きに入れる気持ちがあればいいんですがね。

    僕は人間の弱さは「記憶」だと思うんです。記憶は諸刃の剣です。過去を顧みることはプラスの引き出しを開けることだとは限らない。過去に固執してしまう人間はいくらでも居ますよね。
    そしてその過去を嫌うがあまり取り返しのつかないことになる。
    人はよく自分と戦います。ヒーローものやスポーツものでも自分に打ち勝つ時成長する、とされます。

    でも結局は敵がいるからこその成長なんですよね。

    20世紀は凄い時代でした。社会主義を目論む国が増え、全く違う考えを持つ社会主義国家と資本主義国家の対立。その対立構造は戦争を引き起こしました。お互いがお互いを「敵」だと信じて。

    しかしヒエラルキーを嫌って作られた資本主義には皮肉なことにその内部で、さらに他国との差で、という2種類で新たなヒエラルキーを作り出しました。その結果、資本主義国家にとっての「敵」は資本主義国家から社会主義国家へと成り代わりました。

    話を戻します。「敵」という概念は人類を成長へと導きました。もちろん多数の戦争はありましたし、その戦争で被害にあった方々を人類の成長という視点だけで捉え、仕方の無いことだとすることは出来ません。
    21世紀は戦争がなくなりました。そして「敵」は自分、ないしは自国の成長というものになりました。

    「敵」が自分になってしまった世界、21世紀はどうなるのでしょうか。果たして資源の枯渇、環境問題などに向き合いながら人類は前を向き続けることができるのでしょうか。

    もしくは、SFチックなタイムマシンが完成して、過去を顧みる人達が現れるのでしょうか。それとも、地球が滅びる際にはその実現不可能なSFを夢見ながら、人類は衰退の一途を辿るのでしょうか。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます!

      文章を読んで思うのは、過去に何か足枷となるような苦い記憶があるのでしょうか。
      おっしゃる通りで、多かれ少なかれ、人には幸福な記憶と、不幸な記憶、両方ともあるみたいです。
      必ずしも、まぁ、幸福な記憶ばかりではないかなと。
      記憶をたぐったときに自然と「幸福な記憶」をまず最初に想起するのか、「不幸な記憶」を思い出すのか。
      どっちが良いとか、悪いとか、強い、弱い、というのはわからないです。
      ただ「昔のことを何でもいいからちょっと思い出してみて?」と質問をしたときに、
      人との話題として「そう言えばさ!」と、楽しかった思い出なんかをふと思い出す人が多数派かな? と自分は感じています。
      過去の辛かった記憶が真っ先に思い出されるのであれば、少数派で、
      しかもそのタイプは自分を過去のそういった辛かった記憶を事あるごとに思い出しては「自分の弱さ」というか、
      自己否定感に苛まれてしまう人なのかなと。
      周囲に敵がいないときに、自分自身の中に敵を見るというのであれば、
      それもまた何かのコンプレックスを自分自身に感じている気がします。
      それを「弱さ」に感じるのでしょうか。

      例えばある大人が子どもを「お前は弱いし私の理想に叶わない失敗した存在だ」と教育したとして、
      その教育が正しく機能して「はい。私は理想とかけ離れた失敗した存在です」と子どもが学習したとするんです。
      ところがその子どもが本当に失敗してるかどうか、人類社会にとっては判断がつかない。
      ただひたすら容赦なく「自信のない子ども」が社会に一人発生したかな? って程度の話なんです。
      そして、その「自信のない子ども」がいつか「自信のない大人」になって、他者と自己を比較しては苦悩して、ストレスをためて、
      そのストレスからの防御反応として他者に対して攻撃的になっても、
      その個体が良いのか、悪いのか、強いのか、弱いのか、利益になるのか、損失になるか、
      それらは社会に帰属するぼくたちの「主観」でしかなく、本当に人類という種にとってはただひたすら多数に枝分かれした「可能性」の一本に過ぎないんです。
      その可能性が、「ほんの少しだけでも、一分一秒でも、未来へと人類の遺伝子を残す」ことなのかなと。
      自信のない臆病な個体が逃げ隠れすることによって命を永らえて、
      逆に自信に満ちた個体が勇敢に立ち向かって命を落とす場合もあるんです。
      そのためにも、両方ともが必要なのかなと。

      同様に、政治でも、
      ……まぁ、あんまり政治的な話は色々な要素が複雑に絡み合って難しくなってしまうし、何よりぼくがあんまり語れるほど賢くないのですが。

      個人的には社会主義は「誰か一人が貧乏になってしまったとき、全員が貧乏になってしまっている」みたいな弱さがあったなと。
      「格差がない」「誰もが平等」と言えば聞こえはいいんですが、
      経済状況や個体による社会貢献度が統一され、多様性がなく、誰か1人が貧困に陥ったとき、
      それを助けることができる裕福な個体がどこにもおらず、全員が平等に貧困に喘いでしまっている、という破綻が起きてしまう。
      逆に資本主義の競争は、格差こそ発生するけど、その格差があるからこそ、
      誰かが失敗したとき、成功している個体が一方で発生して、
      その成功個体が失敗した個体の弱体化をカバーすることができる。
      「格差を嫌い、平等を望む」というより、「他人と比較して、自分が劣っているのは嫌だ!」というルサンチマンによって興った思想が「社会主義」だなとも感じています。
      ヒエラルキーの底辺に位置する貧困層にとって、富裕層と自分の生活を比較してしまう日々は苦痛でしかない。
      彼らに社会主義の謳う「平等」はとても魅力的に見えてしまう。
      「自分より優れた個体を発生させない」という戦略も立派に他者との競争だと感じるんです。

      まぁでも、社会主義でも資本主義でもなんでもいいんです。
      架空戦史の小説みたいに、社会主義国家が勝利して世界を統一したディストピア、人類皆奴隷みたいな世界がこの地球上に誕生したとします。
      格差がなく平等になって争いもなく国家に反逆するテロもなく敵もなく全てが徹底管理されるんです。
      そうなってしまえば、あとは突発的な想定外のカタストロフが起きて、
      しかし誰一人としてカタストロフに適応できず、人類史がそこで終焉をむかえるだけなんです。
      多様性がないので、誰もが等しくその危機の対応に失敗する。
      その程度の話なんです。
      「人」が滅んでしまった後に、誰も悲しむ「人」はもういないんです。
      ぼくたち、「滅びた後の心配」は全然する必要がなく、ひたすら「滅びるまでの時間稼ぎの心配」をするべきだなと考えてるんです。
      滅びは遅かれ早かれあるにしても、それをぼくたちは試行錯誤で、ほんの一秒でも後に伸ばしている。
      それだけなんです。
      まだ遠い未来の話ではあっても、必ず訪れるんです。
      幸いなことに、21世紀になっても相変わらず戦争は起きてますし、差別も格差も有るし、取り組むべき環境問題も目白押しですし、
      そしてぼくたち人類はしばらく滅びる気配もない。
      どうしてこんな話をしているのかぼくも混乱しているんですが、結局の所、まぁ本当に、
      強いも、弱いも、幸福も、不幸も、善も、悪も、社会主義も、資本主義も、成功も、失敗も、
      容赦なく、ぼくたちの主観でしかなく、ぶっちゃけどっちでもいいし、どっちも必要だったんです。

      多様性は、とても望ましいくらい保たれている。
      本当に色んな人がいる。お陰様で争い放題です。
      敵がいなくなったらどうしよう、なんて心配も多分必要ないですよ。
      ぼくたちは敵を見つけるようにできています。
      こんなに色んな人がいるのだから、敵じゃなくても、敵にすることができます。
      ある意味でぼくの目に映る「悪人を見つけ出して吊るし上げろ! 探せ!」というネット社会における皆の動きは、
      とてつもなく「人間らしい動き」だなとも感じています。
      ぼくも勝手に「敵」を見つけて苛立っている節がある。
      このブログもそうですね。
      何も意見を言わず、特定層への社会的迫害くらい見て見ぬ振りをすればよいのに。
      とても難しいですね。

  22. 怒髪天 より:

    仮に運悪く1を引いた人間が生き残るために他の人間に危害を加えるなら
    1を引いた時点で間引くべきだ
    どうせ手前勝手な理由のために他人を泣かせる人間はこちらから歩み寄ろうと向こうはわかり合おうとしないんだ
    そんな奴らのためにコストを割くのはあまりに無意味すぎる

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます。
      すごい長いんですが、お返事します。

      現状、おっしゃる通りなんですよね。
      「間引く」というのは本当に正しいんです。
      ただ「お前は間引かれる覚悟はできているか」と、社会がぼくたちに問うているんです。

      ある鳥は年に一度3個の卵を生むんです。
      だけど、最初に孵ったヒナしか育てない。
      残り2個の卵はヒナが孵っても餌を与えず殺してしまうんです。
      何故だと思います?
      その鳥がバカで狂ってるから、でもいいんです。
      その鳥が邪悪な鳥だからだ、でもいいんです。
      だけど、実際はそうじゃない。
      その過酷な環境の中で、3羽のヒナ全てを平等に育てようとすると、どうしても餌を集めきれずに3羽全てを死なせてしまう。
      ならば、いっそ1羽だけに集中して確実に1年に1羽ずつ個体数を増やしていく、という戦略を取ったんです。
      そうやって、餌の乏しい環境に適応していっただけなんだと思うんです。
      だけど、もし環境が許して、その3個の卵全てを育てることができれば?
      きっと、鳥は3倍の勢いで個体数を増やしていくことができるはずなんです。
      これがぼくたちの言う「人権」なのかな? と。
      「人権」って、決して、皆が崇拝するような「天から与えられたスーパーバリア」のようなものではなく、
      環境が許す限りにおいて、3倍の勢いで繁殖を可能にする、ただひたすら泥臭い生存戦略の1個にすぎないのかな、とぼくは考えてます。
      全てのヒナを育てるからこそ、3倍の勢いで増えることができる。
      ただそのためには、餌が全てのヒナに行き渡るよう、努力をしなさいと。
      逆に、環境が許さないのであれば、やはり最初に孵ったヒナだけに集中して、残りの2個目、3個目の卵は見殺しにするのが正しいとも思うんです。
      厄介な問題は、僕たち誰一人として「1個目の卵ではない」ということです。

      車でもいいんです。
      車って、とても便利じゃないですか。
      だけどあれって、確実に事故率0%を達成できない、高速で走る鉄の塊なんです。
      言い換えれば、車は絶対に人を殺すんです。
      交通事故がなくなる時代は、きっと来ないんです。
      こうやってぼんやりしている間にも、今日もどこかで車が人を轢き潰している。
      だけど、人を殺すとわかっていながら、車は相変わらず走っているんです。
      だって運の悪い少数を殺すけれども、はるかに大多数の社会に利益をもたらすから。
      走らせるしかなかった。
      そこで、ぼくたち社会は制度上の努力をしているのかもな、と思うんです。
      人を当然に殺す鉄塊が、なるべく人を殺さないよう道交法を定め、技術を高め、
      なおかつそれでも事故率0%を達成できないからこそ、自動車保険などの保障で、
      「車は人を殺す、だけど万一、車がお前を殺した場合、その損失を我々社会か、あるいは事故を起こしたその人間に責任を背負わせる。
      だから車が走るのを許せ」と社会に帰属する全員に要求したのかなと。
      言うなれば「運悪くサイコロで1を出した人間がいても、必ず社会がカバーする。
      だからすまないがサイコロで1を出す確率はあれど、サイコロをふってくれ」というか。
      大事なのは「全ての人間が例外なく轢かれる恐れがある」ことなんです。
      でも、誰もそのことに気づいてない。
      車がよもや、自分を轢き潰すなんて夢にも思っていない。
      「間引く」と言うのであれば、コストのかかる保険金なんて払わない方がいいんです。
      道交法なんて面倒くさい制度、なくしてしまえばいいんです。
      何人かの運の悪い奴は轢き潰されていくけど、無視して車を走らせ続ければいい。
      事実、車が高所得層の娯楽品だった時代には、交通事故は金持ちが金を持ってない庶民を轢き潰して「はいすいません」で走り去ってしまえばよかったんです。
      別に轢き潰された運の悪い個体なんて見捨ててしまえばいいんです。
      だけど、そんな社会に生きてたいです?
      社会に帰属する全員が、安心して道を歩くことができないし、安心して車を運転できない気がするんです。

      冷蔵庫の保証書でもいいんです。
      あれって別に「冷蔵庫が3年以内に壊れない」ってことを保証している自信の現れじゃなく、
      単純に「実は初期不良の発生率はどうしても0%にできない。だけど、それでもうちの商品を買ってくれ! 万一、運悪く初期不良品を引いても、絶対に新品と交換するから!」という制度かなと。
      あなたは数万円する冷蔵庫の、初期不良品を運悪く引いてしまったとき、
      「運が悪かったな! じゃあもう一回同じ値段で買うか!」って同じ商品を買うか、なんです。
      会社側としては初期不良品を買ったお客さんが、もう一度文句も言わずに同じ商品を買ってくれたなら、
      二倍に利益を生むし、絶対に保証書なんかつけないほうがいいんです。
      泣き寝入りさせたほうが利益になる。
      だけど、実際にはそんな会社の商品、誰もが萎縮して買いたがらなかった。
      だから、保証書というシステムが会社には必要だったのかなと。
      あれがないと、ぼくたち消費者も安心して冷蔵庫を買えない。
      ほんの数%の不良品を掴まないように祈りながら冷蔵庫を買うなんて、とんでもない話です。
      今や高額家電製品に保証書をつけてない会社はほぼなくて、これは良心でもなんでもなく、
      淘汰競争に晒されて、保証書をつけない会社は結局生き残れず消えていったようだと感じているんです。

      選べないんです。
      1個目の卵か3個目の卵か。
      なのに生まれてこいと命令される。

      選べないんです。
      車に轢かれるかどうか。
      なのに車の走る街を歩かされる。

      選べないんです。
      初期不良品を引くかどうか。
      なのに冷蔵庫を買うしかない。

      3個目に生まれた卵は、3個目に生まれたくて3個目に生まれたわけじゃないんです。
      車に轢かれた人は、轢かれたくて轢かれたわけじゃないんです。
      初期不良品の冷蔵庫を買った人は、初期不良品を望んで手に入れたわけじゃないんです。
      迷惑な人間(迷惑の定義はひとまず置いておいて)は、迷惑な存在になりたくて自分の行動や存在を制御しているわけじゃないんです。
      誰も、選んでいるように見せかけて、実際には誰も自分の人生を選べていないんです。
      努力なんてまるで通用しない、生まれながらの人生の指向性みたいなものがあるんです。
      迷惑をかける人間になりたい、なんて願う人はいないんです。
      誰もが自立して、あるいは人の役に立って、誰からもその存在を感謝されながら必要とされながら幸福に生きていきたいと願っているみたいなんです。
      彼らはだけど、そんな願いの叶え方も知らない。
      努力をせよと言われても、努力の仕方さえわかるはずがない。
      必然、迷惑な人間とやらは結局、本人の望む望まざると関わらず、迷惑な行動を取るように学習して、最善の行動として迷惑行動を繰り返す。

      ぼくだって発生した何らかの迷惑な事件をなかったことにはできないと承知しています。
      ただ、例えば殺人事件も、どうすれば殺人事件を起こす人間が発生するのか、少しずつ解明されつつあって、
      それらの発生は何も特別な人間が起こすのではなく、どこにでもいる普通の人間でも「人を殺す」という機能が備わっているようなんです。
      ロイヤルストレートフラッシュみたいなものなんです。
      誰もが生まれながらにトランプを5枚配られる。
      それらには、生まれや、教育や、文化や、貧富や、宗教や、遺伝子や、時代背景や、そういった要素が書き込まれている。
      それらが互いに影響しあって、役が完成する。
      滅多にロイヤルストレートフラッシュという役はそろわない。
      だけど、揃う確率はゼロじゃない。
      それらを揃えてしまった人間が、殺人鬼だ。
      あなたにもある。
      あなたにもトランプは配られている。
      どうやら役は揃っていないようだ。
      だけど、惜しいところまで揃ってるんです。
      事実、あなた個人は「運の悪い人間を間引く」という殺人を社会に提案したじゃあないか。

      誤解しないでほしいのは、ぼくは言ったとおり、「間引く」というのは正しい戦略だと本当に思っているんです。
      あなたと同じ意見だ。
      だけど、決定的に違う部分があって、話が通じないからだとか、ムカつくからとか、歩み寄らないからとか、無理だからとか、そういう理由で間引くんじゃないんです。
      ぼくたち社会が、あまりにも未熟で、無理解で、助けられるのに、助けないから、いたずらに「間引かれている」なと考えているんです。

      そして、大事なのは、「社会にとって間引かれるのは誰でもいい」んです。
      あなたでもいいんです。
      3個目の卵は、あなたなんです。
      あなたを間引かなければならない日がある。
      あなたは納得して死んでくれるのだろう。

      >仮に運悪く1を引いた人間が生き残るために他の人間に危害を加えるなら
      >1を引いた時点で間引くべきだ
      >どうせ手前勝手な理由のために他人を泣かせる人間はこちらから歩み寄ろうと向こうはわかり合おうとしないんだ
      >そんな奴らのためにコストを割くのはあまりに無意味すぎる

      あなたの文章を「正しく」言い換えるなら、

      「仮に運悪く1を引いた私が生き残るために他の人間に危害を加えるなら
      1を引いた時点で間引いてくれ
      どうせ手前勝手な理由のために他人を泣かせる私は、皆から歩み寄ってもらっても、わかり合おうとしないんだ
      そんな私のためにコストを割くのはあまりに無意味すぎる」

      素晴らしい自己犠牲の精神だと思うんです。
      ぼくはこんなにも立派に潔く、自らの死を受け入れられる気がしない。
      きっと情けなく命乞いをして、社会を恨みながら死んでいくだろう。
      でも、あなたは違う。覚悟のある人の文章だ。

      だけど、ぼくはあなたにその日が来ても、間引かれてほしくないと願う。
      誰か1人でも「1が出るかも知れないサイコロを振りたくない」と願う限りに置いて、
      何人も例外なく恐ろしいサイコロを振らせるなどあってはならない。
      誰もが「運」などというものではなく、各個人の能力によってそのサイコロの数字を突破できるよう、ぼくたちは努力をすると決めた。

      ぼくたち社会は「可能な限り弱者を弱者のままにしておかず、現環境における平均的な人間として活動できるように例外なく全員で助力する」と旗を掲げた。
      それがもっとも社会に利益をもたらし、親鳥を肥え太らせ、ヒナの個体数(それはサイコロの施行回数だ)を3倍の勢いで増やす。
      だから、誰もが不断の努力をすると誓った。
      あやふやな愛や正義や平和や平等や理想のためじゃなく、それが明確に「利益」になるからこそ、
      不断の努力によって其れを為すとぼくたちは社会に帰属する全員に課した。
      多くの人も納得した。
      そうあるべきだと。
      あなたもそうだ。

      今はあなたの言う通り、弱者を間引くしかない。
      明日も、ぼくたちはどうしても、弱い者から殺していく。
      ぼくはそのことをよく知っている。
      環境に適応できなかった弱者から、死んでいく。
      これからもそうだ。
      皆が事件が発生するたびに、私怨によって「私刑」を望む。
      でもぼくは「社会的な未熟さ故に、かわいそうだけど、間引くしかない」と物事を見る。
      陰惨な殺人事件が起きても、被害者にも加害者にも同調しない。
      「サイコロで1を出した加害者が、サイコロで1を出した被害者を殺した。
      その事象に対してサイコロで1を出さなかった連中が、四角く切り取られた画面に向かって、
      『あれは特別な悪い個体だ! 惨たらしく拷問して殺せ!』と叫んでいる」
      そういうのを見るんです。
      私刑でも死刑でも好きにすればいいんです。
      皆の言う通り、拷問して殺せばいいんです。
      運が悪かった個体が1減った程度の話です。
      起きてしまった事件はどうしようもない。
      でも、明日もきっと殺人事件が起きます。
      そのときの被害者はあなたかも知れないし、加害者はあなたかも知れないんです。
      それの防ぎ方は、ぼくも、あなたも知っていたはずなんです。
      加害者に配られたトランプの絵柄を1枚でも書き換えるだけでいい。
      すぐ隣りにいるんです。やばいやつが。
      殺人鬼という「役」が揃いつつある。
      あるいは既に揃ってる。
      だけど一度だって、ぼくたちは行動したことはない。
      明日もきっと殺人事件が起きます。
      あなたが事件に巻き込まれたときに、「運が悪かったな」とせせら笑う別の「あなた」がいてはならない。
      だから、なるべく、努力をしたいなと考えるんです。
      変な思想を持った人間だなと思われても、なるべく、こう、人に伝えたいなと。
      それで1人でも、現状の社会を少し変えてみたいと、行動を変容させられるかも知れない。

      長くてスイマセン。まぁそんな感じです。
      色んな意見があるよね。

  23. 一虎 より:

    あなたはとても優しい人ですね。何故ならひとりひとりに丁寧な返答をされている。人に対しての敬意や謙遜さをお持ちです。おそらく苦労なさった育ち、環境によって培われた心の強さかと思われます。実は私も両親はどうしようもない人たちでした。なので、私は、あなたの感覚や、あなたが云わんとするところは、理解できる、という感覚です。あなたを幼稚と表現されている方々がいますが、全く正反対で、本当にとても成熟した大人の感性の持ち主だと感じます。これは、実年齢とは関係ないもので、幼稚な人とは自分の事しか見えない人の事だからです。コメントを読む限り、あなたは相手の立場に立って考えられない人ではなく、むしろ、思いやりの言葉がたくさん、うかがえますので。付け加えるなら、頭も良い方。私の言う、この、頭の良さとは、いわゆる、IQの事ではなく(特に低いIQでもなさそうですが(笑))心の賢さを指しています。
    さて、挨拶はこの辺で。
    私は、「淘汰」という言葉に、見えない前提を感じ、気になってしまい、こうしてコメントしています。その見えない前提とは、進化論を宗教的に信じていて、それを前提にして、この世界や人間や動物や色々を考えている、論じている、という所です。結論を先に言うと、進化論とは、言葉の通り、ひとつの論文でしかなく、確かな証明はなされていない、という事実です。この世は実は進化論という名のあやしげな宗教に支配された考え方で蔓延しているので。
    「生き残る」。種として、個体として。そこに絶対的に淘汰がある。と、いう、前提。←その考え方、進化論。
    たったひとつの無証明な論文を基礎にしたって、どうあがいたって、混迷するでしょう。難しさ倍増、当たり前でしょう。
    素敵な希望、見えてきません。あなた自身も、苦しい。あなたの、苦しさ、伝わります。少なくとも私には。
    人間には善悪を決めることは出来ません。そのように創られていないからです。なのに、人間の正義とは?と考え、論じている。そんなの、人の数だけ(現地球人口70億通り、死んだ歴史上の人間あわせりゃ、もう、無数!)あるんです。ひどい虐待したって、虐待した親からしたらそれが正しい教育だったとか言うんです。人を殺しておいて正義を振りかざす。戦争なんてその最たるもの。人間の考える正義は、悪です。何故なら、人間には善悪を決定する権利はないからです。人間には未来が見えません。自分が、明日死ぬかどうかすらも判りません。人は自分の人生さえ盲目のまま歩いているものなのです。そうだとは、思いませんか?

    おそらく、なかなか理解し難い考え方だとは思います。よしんば人間が創造物だとしたら何故そのように創られたのか?とか、だったらどうしたらいいというのか?とか、様々、疑問点は沢山あるでしょう。勿論、全ての質問に明解に答えることは出来るのですが、私の個人的には、こうした所に、こうしてコメントするのは初めてで、おそらく時間的に今後もこういう文章を書くことはないかと。今日はたまたまなの。
    ただ、そういう考え方もあるんだ、ということだけでも知って欲しくて。
    もし、私の言葉に興味があり、疑問の答えをあなた自身が探求したいというなら、JW.orgを検索してみて下さい。←なんだ宣伝かぁ!って思ったでしょう。でも、あなた次第です。私は、本当の自由とは何かを知りましたよ。苦しさから自由に。多分あなたは、自分は自由だと考えていらっしゃると思うけど、もっと自由になって下さい。あなたは、きっとなれます。
    どうかお幸せに!

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます。

      ある親がいて、どうしても自分の子どもを肯定できないとするんです。
      ある日、病院に行くんです。
      親は、自分が如何に可哀そうな人間で、子どもが如何におぞましく、至らない存在か、と強く医者に訴えるんです。
      子どもが狂っている。
      本当にこいつは頭がおかしい。
      私はこんな頭のおかしい子の親で、とても悲しいと。
      私は何も間違っていない。
      ところが、
      「あなたは酷い人だ。あなたの子どもが不幸なのは、あなたの責任なのだ」
      医者は親にそう言うんです。
      立派なお医者さんだったと思うんです。
      言ったことも「正しい」ことだったんだろうと思うんです。
      実際に、子どもを守りたかったのだろうとも思うんです。

      だけど、結果として、問題は激化した。

      ぼくは思うんです。
      別に、問題を解決したくてそんなことを言ったのではなく、
      患者の態度にイライラしたからそう言ったんだろうなと。

      何を解決したいのか? というのを、ぼくたちはちゃんとフォーカスを定めない限り、迷走し続ける。
      親が酷いか酷くないかはデータとして客観的に観測できない。そこに注目しても意味がない。
      だけど、言動だけは観測できる。
      この親は「自分が可哀そう」と訴える。
      であれば「可哀そうな自分を演出する必要があるから、そうしているのだろう」
      であれば「そうすることで怒られないように避けているのかも。過去に『可哀そう』だったから許された経験があるのだろうか」
      であれば「というか、怒られるようなことをしてしまったと今現在ストレスに感じている? そのストレスから身を守ろうとしている?」
      であれば「それは何か?」
      であれば「実は育児に関して失敗を感じている? 口ぶりから、周囲の人や自分自身、育児に失敗したと責めているかな?」
      であれば「理想となる育児があるが、しかしそれに失敗を感じ、育児ができない自分は悪い人間で責められている、そのストレスから逃れたい、と」
      であれば「ひとまずそこらの強迫観念を確認しつつ、それがあるならそれを和らげよう」
      であれば「失敗なんかしてないよ。というか失敗してもいいよ。間違いなんて、あなたの言う通り何もないよ。ひとまず、私は絶対にあなたを怒らないよ。まずは問題を正しく整理して、一緒に解決していこう、と伝えてみよう」
      とか。
      だけど、正義の有る人間が、「正しく」間違えを犯す。
      「何が可哀そうだ! お前が原因なのだ! お前のような親としての自覚が足りてない人間のせいで不幸な子どもが増えるのだ!」
      と。
      自分はこういう「正義」が邪魔だなと感じるんです。
      問題解決力もないのにどこからか小躍りしてしゃしゃり出る。
      力でねじ伏せるくらいの解決案しか出さない。
      そして正しく失敗する。
      ただ、正義を執行するのはとても気持ちがいいんです。
      本当に。
      イライラがすーっと消える。
      ムカつく人間を囲んで棒で叩くのはとっても気持ちがいいんです。
      気持ちがいいと感じるようにぼくたち人間という動物はできている。
      インターネットを見ていると、こういうのがたくさんいる。
      とても楽しそうだ。
      弱そうな人間を探しては、「正義」「愛」と書かれた棍棒で叩きのめす。
      そういう人たちの頭を、更に大きな棍棒で力いっぱい背後から叩く。
      その棍棒がぼくにとって音楽とか、このブログとかの表現なのかもなと。
      そういうのを楽しんでるんです。
      悲しい? とはちょっと違うんです。
      ぼくは優しいんでしょうかね。

      「怪しい宗教のように」
      宗教はお嫌いでしょうか。
      自分の慣れ親しんだ生活圏の外側にある信仰は、どうしても怪しく見えてしまうものです。
      ぼくは好きですよ。宗教。
      人に、希望を与えてくれる。
      心の拠り所のように。
      ほんの少し困った人の、心を軽くしてくれる。
      だけどその目的を達成するなら、土着の呪術でも、西洋東洋の神仏でも、精霊でも、悪魔でも、親でも、常識でも、流行でも、論文でも、科学でも、医療でも、洗脳でも、ギャンブルでも、政治でも、愛でも、正義でも、救われるならなんでもいいんです。
      ぼくの中で「それがあると、ほんの少し心が軽くなる」ちょっとした生活の知恵って意味では、全て等しく信仰と言えるし、それらは並列なんです。
      役に立つなら「怪しい宗教」でもなんでもいいんです。
      ただ、「何者が観測しても、そうなる」というのが一番機能しやすい。
      ある病気を治す薬があったとして、その薬の効果は完全にランダムで、効果があるかどうか証明できない。
      だとして、その薬をありがたがるか? と言われると、
      「薬であるなら、データとして有効性を証明された薬であってくれ」と自分は願うわけなんです。
      たまに「薬が効いたからだ! この薬を飲めば病気は治る!」
      と、たまたま薬を飲んだタイミングで病気が治った人が大きな声でその薬を周囲の人に勧めるんです。
      だけど、言ったとおり効果はランダムで効いたり効かなかったり。
      効果が出ないと「いや、薬の飲む量が足りなかったのだ! もっと飲め!」と更に飲ませようとする。
      治るまで飲ませるんです。
      治るまで飲ませるんで、いつか治ってしまうんです。
      でもそれが自然治癒されたのか、薬の効果なのかは証明できない。
      だけど、「ほら?! この薬のおかげで治った! みんなにももっと薦めよう!」と喜ぶ。
      治らなかったら「いや、薬の量が足りなかったのだ。この人はあんまり薬を飲んでくれなかったから……」で言い逃れてしまえる。
      薬の効果も、服用量に対する客観視も、何もできない。
      宗教はそういう色が強すぎるところはあるなと。
      データを観測できない現象は、そういう問題があるんです。
      人によって、時代によって、文化によって、答えや効果が出たり出なかったり、変わってしまうものでは困るんです。
      でもデータは言い逃れさせない。
      容赦のない冷たさがある。

      進化論を信じたことなんてないです。
      数学の九九を学んだ人間が、数学の九九を絶対の神だと信仰しないように。
      歴史を学んだ人間が、歴史を神だと信仰しないように。
      人間の開発した便利なツールの一つとして見ています。
      人間が困ったときに、そのツールを使うことで問題の解決に役立つ、そういう類の物かなと。
      自分の中で、観測し、介入し、何度も先人たちの実験によって「人間」という「動物」を科学によって、
      その行動を容赦なく、主観なく、客観によって、観測し、それをデータとして集め続ける。
      そういう学問を自分は愛しているんです。
      それらが教えてくれる。
      人間という「動物」のことを。
      動物のたとえ話が多いのは、客観的に身近に起きる現象として、例に上げやすいんです。
      「子どもにもわかるように説明をしなさい、尚且つそれは誰にでも当てはまる客観性を持っていなければならない」
      って論述を要求されたとき、動物のたとえ話が一番やりやすいんです。
      人間は「動物」なんですが、このことを忘れている人が多くて、人間は「人間」という強大な何か別の存在のように考えている教育が一定以上あって、
      それら教育を受けた人たちの前提条件で「人間は素晴らしい」と語られる中で、
      「人間は『動物』でしかなく、動物である以上、他の動物と同じように習性みたいなのがあって、それに従ってしまう」
      そういう思考を自分はしているんです。
      だから動物の話をよく持ってくるのかも。

      てんとう虫を観察してみるんです。
      草木に止まっては上へ、上へと登っていく。
      てっぺんに辿り着いてもう登れないとなると、そこから翅を広げて飛び立つ。
      その事に気づいた後、
      「これは下からアブラムシなどを効率よく食べて、次の草に飛び移るためだ」と考察したのか、
      「これは神様がそうしなさいと命令したからだ」と考察したのか、
      ぶっちゃけどっちでもいいんです。
      好きな方を信じればいい。

      重要なのは「てんとう虫はどうやら上へと向かって移動する」ということを、ぼくたちはてんとう虫を何匹も観察して、
      データを取って、初めて客観的に説明することができたという事実なんです。
      てんとう虫を草木に止めて自由に歩かせたとき、何%が上へと向かって歩くのか?
      というのを何匹も何匹もてんとう虫を歩かせて、そして統計でそのデータを洗うんです。
      そのとき、明らかに「上を目指して歩く個体」が、そうでない個体より多いと。
      データが客観的にそう示す。
      誰が観測しても、そのデータが出てくる。
      それが大事なんです。
      「何故、てんとう虫は上へと向かって登るのか」は、あとで好き勝手に人間が考察して議論します。
      本当に別に神様の偉大なる力のおかげでもいいんです。
      進化論を「無証明」とおっしゃっているのはこの「考察」の部分なのだろうなと。
      ただ、データは。
      誰がどのようにどの時代に実験し、観測しても、同じ結果が出てくる。
      そういう揺るぎない、たとえ人類が70億人、誰がてんとう虫を観測しても、70億通りの結果が出ずに、たった一つ「てんとう虫は上へと登る」という結果が出るんです。
      ここだけは「無証明」ではないんです。
      「上へと向かって登らなかったてんとう虫は、上手くアブラムシを食べられずに淘汰されていったのだ」
      という理由は別になくてもいいんです。
      「神様がてんとう虫をそうお作りになったからだ」でもいいんです。
      どちらを信じるほうがその人を幸せにするかで、好きな方を信じればいい。
      でも「てんとう虫は上へと向かって登る」というデータは裏切らない。
      だからこそ、ぼくたちは「てんとう虫を草木に止めて、自由に歩かせたなら、きっと上へと向かって歩いていくだろう」と予測できる。
      予測できるのであれば、その歩行経路を、さらに「変える」こともできるんです。
      てんとう虫を手のひらの上に乗せて、人差し指を立てて、その指先へと登らせるんです。
      ところが、途中でくるりと指を下向きにして、今度は逆に手のひらの方へとまた登らせていく。
      そんな意地悪したことあります?
      ぼくはありますよ。
      これが。
      これができるのが、人間のすごいところなんです。
      当たり前だと感じる人がほとんどだろうけど、ぼくはこれがすごいことなんだと信じているんです。
      「てんとう虫は上へと登る」と知って、てんとう虫の経路=「未来」を予測し、
      指をひっくり返すという行動でてんとう虫の未来に介入し、
      ぼくの意図する望ましい未来へ結果を変える。
      てんとう虫を再び、指先から手のひらへと操作する。
      これが、自分が本当に信仰している対象なんです。
      現象を観測し、データを取る。
      そのデータから現象の再現性を得る。
      現象にまつわる未来を予測する。
      予測して、介入する。
      介入して、望む未来を得る。
      そういうプロセスを取れる自由を、ぼくは愛しています。
      人類70億いて、70億通りの答えなんてない、たった一つの揺るぎない絶対の答えが好きなんです。
      観測できる、予測できる、介入できる、さらに誰もがそれを再現できる。
      それが自分の信じられる対象なんです。

      殺人事件が起きたときに、殺人は良くないこととか、そういうことではなく、
      その犯人の観測できる事項を細かくピックアップして、過去の事件と照らし合わせて、
      共通する項目を集めるんです。
      それで「この項目が満ちると、人は人を殺すようになる」とデータから予測して、
      じゃあ、今現在その項目を満たしている人間を早い段階で発見して、介入して、
      その起こりうる「殺人事件」という未来を阻止するんです。
      殺人は良いとか、悪いとか、神様が禁止したとか、そういう議論や説法で殺人事件を防げたり防げなかったりでは困るんです。
      そもそも善悪は時代に合わせて変わっていく。
      だけど「殺人事件を発生させる条件」は、データとして揺るがない。
      そしてそのデータに照らして、子どもの中で条件を満たした、つまりこのままでは殺人事件を起こすであろう人間を、
      間引いて殺すなり、保護して社会に取り戻すなりができるだろうと。

      ぼくは今でも、
      ろくでもない親に「ろくでもない親だ!」と棍棒で叩きのめした正義の人たちを、どこかで恨んでます。
      本当に余計なことをしたなと。
      おまえらのおかげでこちらもろくでもない目にあったと。
      そしてその棍棒はぼくの手の中にもあった。
      「どうしようもない親」を恨んでます?
      ぼくは恨んだことがたくさんある。
      ぼくは自分が恥ずかしい。
      正義の人たちを恨んでいるというより、そういう行動を取ってしまうぼくたちの浅はかさを恨んでいる。
      「自分はとても可哀そうだ」と自分をとても慰めてた。
      その行動は、ろくでもない、どうしようもない誰かと似ていたなと。
      まあでも、おかげで考える機会を授かった。
      そういう気がします。
      ぼくの周りでは神様は観測できず、ぼくにはぼくしかいなかった。
      ぼくが考えて、答えを出して、行動するしかなかった。
      上手くケリをつけれた気がする。
      でも自分の解決したそれは確かに「効果の証明されていない薬」なんです。
      自分がそれを飲んだら、それで悪い部分が治ってしまって、
      それでこの薬のことを少しだけ知ってもらいたくて、ブログを書いたり、曲を作ったり。
      そういう。
      ぼくしか信じていない宗教なんですよね。
      その薬が、でも、誰かに効果があればいいなぁと思うんです。
      お互い、なかなか大変ですね。

  24. Luculia より:

    私は2019年の2月頃に初めてこの記事を読みました。それ以来、何か殺人事件やそれから1年などの度にこの記事を読みに来ます。

    当時の私は大学3回生ぐらいだったでしょうか。私は心を病んでなかなか大学に行けなかった。もともと中学生の時に不登校になり、外出することさえできなくなってしまった。理由は周りの人間が白い目で私を見ているような気がしてならなかったから。学校に行かないことをまるで非難されているかのように感じ、まるで社会の底辺層にいるかのような感覚だった。やがて、それに適応するために外出する際は、周りの人間全てを敵だと思い、ガンを飛ばしてやり過ごすようになった。幸せそうに笑う人間を見ていると「殺したい」そう思うこともあった。それはかぼちゃさんの言葉で言うと「目を見ながら殴られて育った子どもは、やがて適応して自分を見る人間全てを敵と認識して殺した」というのと似ている気がする。大学生であった私の当時はそれの名残りだと思います。ストレスに適応するために大学から逃避した。「僕は悪い人間だ。」そう思っていた私にとってこの記事は救済だった。「あなたは、悪い人じゃあない」そう言われたのが何よりも嬉しかった。ありがとう。

    さて、確か2019年の5月頃?に起こった川崎市登戸通り魔事件を覚えていますでしょうか?保護者と児童を切りつけた(死傷者2名)後、犯人は自死。そのあと「死にたいなら1人で死ね」という拡大自殺への非難をめぐる論争が交わされました。それに対して僕は「死にたいなら1人で死ね」という意見に全面的には賛同できなかった。なぜなら、かつての私のような人間不信に陥り孤独に苛まれていた者の拡大自殺を助長しかねないから。もちろん、罪を犯した者は断罪されるべきであるし死刑制度にも反対ではない。が、拡大自殺を実際に起こしかねない人間は見えないだけで、現代社会には燻っている。そういう人間に対し歩み寄りの姿勢も見せないで「死にたいなら1人で死ね」というのはあまりに無責任だと思い、許せなかった。かぼちゃさんはこの議論をどう思われましたか?

    長々とすみません。これで最後の話題です。今日、京都アニメーション放火事件から1年になります。たくさんのアニメーターの方々が亡くなられ、容疑者の青葉真司は逮捕されました。非常に悲しい事件です。私もしばらく立ち直れませんでした。そこで社会で散見されたのが「青葉真司が憎い」といった憤りや怒りの感情です。多くの人がこの感情に至ったことでしょう。しかし、私は加害者に対して怒りも憤りも持っていません。あるのは「なぜ社会は青葉真司という人間の中にある闇を取り除いてやれなかったのか」という悔恨です。加害者はホントに酷いことをした。それは事実です。しかし、それと同時に加害者の闇を作ったのも社会だと思います。社会が見て見ぬふりをしてきた闇がそのまま社会にふって帰ってきた、そう考えています。かぼちゃさんは加害者に対して怒りや憤りといった感情を持っていますでしょうか?それともまた別の感情を抱いているのでしょうか?

    ホントに長々と失礼しました。ここに書いたことのほとんどは自己満足程度のものでしかないかもしれない。それでも、私はあなたに少し救われた気がする。心より感謝を込めてありがとう。

    1. kabotya より:

      子犬を自殺させるんです。

      「子犬が自殺? 自殺なんて愚かな行為をするのは、人間くらいなものだ」
      と、思ったり、
      自殺「させる」という不思議な表現も手伝って、
      色々と混乱させてしまうかも知れませんが、
      でも、確かに、「子犬を自殺させる」んです。

      子犬を崖際に追い詰めて、
      ガソリンで逃げ場を囲むように撒いて、火を放つんです。

      炎は舐めるように地を這い、苛烈に燃え盛り、子犬を崖へ、崖へと追い込んでいく。
      子犬はもう、一歩だって後ろに下がることはできない。
      あと一歩下がったなら、崖から落ちて死ぬだろう。
      かといって、このまま炎に包まれていては、いずれは焼け死ぬだろう。
      かわいそうに、我が身を焦がす熱に包まれ、子犬は泣き叫ぶわけです。
      でも、誰も助けない。
      ぼくたちは安全な場所からそのシーンを眺めて、

      「もうちょっと我慢しろ! いつかその火傷が良い思い出になる!」
      「耐えるんだ! がんばるんだ! 時間が経てばいつか火は消える!」
      「私も昔、あなたのように炎に包まれてた! でも頑張って生きてたら炎は消えたの! 見て? この火傷の痕! すんごいでしょ?! 今では立派な勲章よ!」
      「親からもらった大切な命なんだ! 絶対に崖から飛び降りるんじゃないぞ!」
      「信じればいつか炎は消える! もっと信じろ!」
      「あなたが死ぬと悲しむ人がたくさんいるの! あなたを必要としてくれる人はきっといるわ! だから頑張って生きて!」
      「いや、努力が足りないのだ! もっと努力して炎を耐えるんだ!」
      「命の尊さを学ばなかったのか! 命を粗末にするやつは地獄に落ちるぞ! 絶対に崖から飛び降りるんじゃない!」
      「おいおい炎にまかれてるからって一々声を上げるな! 他所じゃもっと熱い炎に焼かれているかわいそうなやつもいるんだぞ? 甘えるな!」
      「ってか、それくらいで吠えるな。どうせ崖から飛び降りる勇気もないんだし、ただの気を引くための鳴き声だろ?」
      「崖から飛び降りるのはとっても迷惑なんだよな。その死体処理にどれだけ金がかかると思ってるんだ? 周囲に迷惑とは思わんのかね」

      とまぁ、崖からの投身を食い止めるべく、的確な素晴らしい言葉の数々を浴びせるんです。
      でも、的確なはずの、それら素晴らしい言葉はぼくたちの思惑を外れて、
      まったく子犬に届かなく、とうとう熱さに我慢できずに子犬は崖から飛び降りた。
      そして、死んだ。

      死んだ子犬に向かってぼくたちは「命を粗末にしてほしくなかった……」と捨て台詞を投げかける。

      この現象は、なんなのだろうかと。
      「炎を我慢することこそが大切だ」と、
      一度も焼け死んだことがない個体、生き残った個体が、その言葉を使う。
      彼らの中に、焼け死んだ個体は一人だっていやしない。
      崖から飛び降りたことのある個体も、一人だっていやしない。
      だって、例外なくそれら個体は死んでいったから。
      生存バイアスに従って、たまたま、燃えても炎が消えた運の良かった個体か(そいつらは炎が時間が経てば消えるのだと学習した個体だ)、
      一度も炎に包まれたことがない平和な個体だけが、子犬に「命の価値」「忍耐」を要求する。

      この子犬は、命を粗末にしたのだろうか。

      ただ、炎から逃れるために、飛び降りたのは、
      炎が熱いというストレスから逃れるために飛び降りたのは、
      果たして非合理的で気の触れた無責任な異常行動だったのだろうか。

      そして、周囲の人間、つまりぼくたち社会は本当に正しく、
      子犬を合理的に助けたがっていたのだろうか。

      ちなみに、火を放ったやつがいるなら「自殺じゃない」のかも知れないけど、
      ぼくに言わせれば自殺は例外なく上記のような問題なんです。
      つまり自殺を定義するなら、

      「致命的なストレスから逃れるために、もう一方の致命的なストレスを選択する」

      ってことなんです。
      そして、炎の正体(致命的なストレス)が学歴でも職歴でも引きこもりでもブラック企業でもコンプレックスでも失恋でも童貞でも家族でも年収でも人それぞれなんです。
      まぁ、だいたい炎を放つのはぼくたち社会です。
      大学を卒業していなければならない、
      職についてなければならない、
      残業しなければならない、
      良き異性のパートナーといなければならない、
      結婚しなければならない、
      童貞ではならない、
      年収ン百万円でなければならない、
      年齢は若くなければならない、
      美しくなければならない、
      などなど。

      何故かそういう不思議なルールが炎としていたるところに燃え盛っている。

      子犬はその炎を結局、消せなかった。
      それから逃れるために、別の致命的なストレスを選択する。
      それがつまり、「飛び降りる」という行為だった。
      別に「飛び降りる」だけじゃなく、「人を殺す」「たくさん殺す」でも当てはまるんですが。

      ぼくは、炎に燃え盛って死んでいく個体も、
      崖から飛び降りる個体も、
      まぁ、それしか手段がなかったんだろうって思うんです。
      自分たちが知っている知識と知恵の範囲での対処方法として、それしかなかったんだろうと。

      周囲の人間はみんな「命の尊さ」を、犬に向かって安全地帯から説教する。
      何故、誰も炎の正体を見極めて、炎を消そうとしないのだろうかと。

      あなたが感じる憤りは、そういう周囲の人間、見当外れの「素晴らしい言葉」を子犬にかけている人間に対するストレスなのかも。
      だとしたら、ぼくと同じかも。
      ただ、
      命の尊さを説教する彼らも、実は彼らの知っている知識と知恵の範囲での最善の行為をしているだけのようなんです。
      彼らはそれが子犬を焼き殺すことになるとは気づいてないだけで。

      そういう意味では、明日焼け死ぬであろう子犬に向かって、周囲の人間が見当外れの「命の尊さ」を説教するのを、
      ぼうっと見てるだけの人間が、一番悪人なのかも。
      防げるのに、防げない。
      それは、ぼくなのだろうかとも。

      さておき、
      川崎市登戸通り魔事件、
      京都アニメーション放火殺人事件、
      両者、ってか他の事件も、まぁそうなんですが。

      「致命的なストレスから逃れるために、もう一方の致命的なストレスを選択する」という行動だったのだろう。

      そう思うんです。
      特別な人間が起こした、特別な事件ではなく、
      同じ条件が揃えば、誰もがそうしただろうという、必然だと思うんです。
      あなたもそうだ。
      一歩間違えれば、あなたも何か重大な事件を起こしていたかもしれない。
      そうでしょう?
      だからこそ、一歩間違えてしまった彼らを、周囲の人間と同じように責められない。

      予想できるところから予想するしかないですが、
      川崎市登戸通り魔事件も、
      京都アニメーション放火殺人事件も、
      全然、普通の幸せな家庭で生まれ育った人間ではなく、
      過酷な環境を生き抜いた個体であり、
      そして、どちらも、もう耐えきれないほどに炎に包まれて、後がなかっただろう、
      そう思うんです。

      彼らは、かなり世の中のことを恨んでいただろうし、努力では絶対に覆らないし、起こるべくして起こっただろう。
      毎日、燃えていただろう。
      親との関係性も、親族との関係性も、周囲との関係性も、自分自身の遺伝子によって発露する気質も、彼らには選択できなかった。
      その後は、芋づる式に学業の失敗や、交友関係の失敗や、恋愛関係の失敗や、就職の失敗が連鎖して、
      そして、もう一歩も後には引けなかっただろう。
      あるいは、一歩、後に引いて崖から飛び降りたからこそ、ぼくらの知る「結果」になったのかも。
      「無敵の人」なんて言葉を最近聞きましたが、本当にもう失うものがないほどに追い詰められて、その「結果」に辿り着いただろう。

      でも、その環境は彼らが選んだわけじゃない。
      むしろ、ぼくたちが押し付けた。
      そして、彼らの置かれた環境が、彼ら自身を焦がす炎となって、彼らを責め苛む。
      その環境にいない人間、幸福を手に入れられる環境に適応した人間が、
      彼らや彼らの家族に努力不足を説教するのは見当外れだし、
      彼らや彼らの家族に知識不足を説教するのも見当外れだ。
      それを得るための環境を用意しなかった、ぼくたちの責任だ。
      燃え盛る子犬に「命の尊さ」「我慢」なんて説教するだけ無駄なのに、ぼくたちは理想論をかざす。

      子犬は、炎の消える様を妄想して、自分の知っている知識と知恵の範囲で、
      炎を消すための最善の行動(それはぼくたちの目には常軌を逸した行動)、
      あるいは崖から飛び降りる行動を取っただろう。
      逆に何故、「ぼくたちは誰一人として燃え盛る子犬を、正しい形で助けようとしなかったのだろうか」と、
      そう問うべきだろうなと思います。

      自分の感覚としては、誰も悪い人はいないんです。
      環境の中で正しく適応し、正しく行動をした。
      彼らは、人間という動物の学習しうる範囲の行動しかできない。
      それだけだ。
      なのに、誰一人として、「自分たちは何故、それを防げなかったのだろうか?」と自分自身に問わない。
      まぁ、本当に「ぼくたち」の責任です。
      悪いのはぼくだ。
      あなただ。
      この文章を呼んでいる全ての人にある。
      そう考えます。

      すぐ隣に、いるんです。
      今からでも介入できる、未来に起こる殺人事件が。
      40歳、50歳のおっさんでは、誰も助けようとしないなら、せめて10代の少年を助けろと思うんです。
      その10代の少年は、いつか50歳になる。
      そして、また「致命的なストレスから逃れるために、もう一方の致命的なストレスを選択する」。
      そう思います。
      なのに、誰も、周囲を見渡さない。
      だから、多分、きっとまた似たような殺人は起こります。
      かつて彼らが10代の少年で、やがて殺人を犯す40歳、50歳になったように。
      そして、また誰もが「あいつが悪いのだ!」と個人に責任を要求して、
      自分自身(つまり、社会)を顧みない。
      助けなかったのはぼくたちなのに。

      殺人事件が起こるんです。
      40歳のおっさんが、あなたの家族や友人を殺すんです。
      あなたは殺人犯を恨むだろう。
      そこへ都合よく神様が現れて「殺人事件を防ぐチャンスをやろう」と、
      あなたを30年前の過去、「30年後に殺人事件を犯す10歳の少年」のもとに連れて行ってくれる。
      どうやら、過酷な環境に置かれているようだ、その少年は。
      多くの人は「よっしゃ! 30年後の殺人事件を防ぐために同じ目に合わせて殺すか!」
      となるようです。
      素晴らしい答えだと思うんです。
      でも、何故か、その場合、多分「30年後の殺人事件を防ぐために子どもを殺した」と妄言を吐く、
      殺人犯がまた一人発生しただけのように感じるんです。

      殺してもいいんですよ。
      それでもいい。本当に。
      だけど、他にやりようがあるってのがぼくの考えです。
      みんな、殺したがる。
      不思議と。

      だけど、あなたは違う。
      殺さない。
      かなり珍しい。少数派だ。
      そして、あなたのような人間がこれからの時代に必要だと思うんです。
      今は少数派だけど。
      燃え盛る子犬に「命って大事! 死なないで!」なんて言う多数派の美しい人間じゃなく、
      具体的に子犬を焦がす炎を見極め、それを消すべく介入する、
      愛にも正義にも頼らない、泥臭い人間が必要なんです。
      そう思います。

      すいません、長くて。
      コメントありがとうございました。

  25. 幾何斐 より:

    どうも、SNS的なものやyoutubeなんかで度々お世話になっております幾何斐です。
    確か自分がこのブログを見つけたのがevil is….の発売直後くらいだったと思うので(なにせ自分がかぼちゃさんを知ったのが、M3新譜を探しているときに同人ショップのレコメンド機能で流れてきたevil isだったもので)、その頃はコメントのひとつも無かったと記憶しておりますが、当時「面白いこと書く人だなぁ」と思い、かぼちゃ哲学・略してかぼ学、なんて自分の中で勝手に命名したのを覚えています。
    そして時が経ち、色々なところからここを見つけた……というと何か棘が立って聞こえる気もしますが、そういう方々がいらっしゃるようで、興味深くコメントを拝見させていただきました。
    ちょっと驚くくらいの文量がありましたが、「いやこれだいたいWho is the predatorのことやんけwwwwwww」とか「最近のコメント露骨にはっちぽっちの内容やんwwwwwwwwwwwww」と時間を忘れて読んでいたら夜が明けていました。
    自分はもともとピアノをやっていたからか(今でもちょこちょこやってはいますが)、詩を理解・解釈するのがとにかく苦手で、詩の内容はいくら歌を聴き込んでも基本的に頭に入ってきません。頑張って解釈しても、自分と全く違う解釈をした人の感想を作者が「そうそうこれこれ!」と引用ツイートしたりしてるのを見て落胆するのが常です。
    まぁそんな体たらくなので、ここのコメントを読んで一歩、かぼちゃさんの作品に踏み込んだ解釈ができるようになったと思います。
    もっとも最近は感覚的な理解を主軸に作品と向き合っているのと、自分にかぼちゃさんのような語彙や想像力・創造力が無いので、何をどう解釈したのか言葉にできないのですが、以前よりもちょっと良い気分でかぼちゃさんの曲を聴けています。

    と、話は変わりますが。
    自分が音楽をやるうえで、目標にしていたことがあります。以前は『自分の演奏で誰かを発狂させる』としていましたが、最近は『お前の音楽はスゲェよ。でも俺とは違う。俺とは求めてる方向が違ぇんだ』と、自分に音楽のなんたるかを教えてくれた師に言わせること、と解釈し直しました。
    自分が音楽を通してどんな情動を表現したいのかを理解した上で、拒絶してほしいらしいのです。自分のことながらよく分からんのですが。
    たぶんこれが「刺さる」という表現に含まれることだとは思うのですが、コメントを読む限り、かぼちゃさんはどうもそれを達成されたようです。
    それがとてもとても羨ましく、同時にファンとして誇らしくも思います。妬ましくは……ないですね。推しだからでしょうか。

    またまた話は変わりますが……
    自分にとっての音楽って、自分自身を楽しませるための手段であり、同時に、自分自身と対話し、理解するためのツールです。
    自分にとって何が快で何が不快なのか、どんなものを求めているのか、それを自分に問いただしながら、よりよい演奏を目指して研鑽を続け、また自分を満たしてくれる曲や他人の演奏を探し続けています。
    自分自身との向き合い方を、音楽を通して学びました。
    そうして自分がいかに乱雑で無秩序であてずっぽうで出鱈目な屁理屈や錯覚に頼っていたのかを少しずつ理解し……ている最中です。
    自分にとってその手段が音楽だった。きっとかぼちゃさんにとってもそうだった……いえ、それだけではないでしょうけど、音楽がそれなりの割合を占めているのではないかと感じました。自分の勝手な妄想ですけど。
    たぶんその手段は何でもよくて、絵画でも彫刻でも文学でも、それらの複合芸術たる映画やゲーム等々でもいい。
    何なら芸術じゃなくてもいい。数学でも物理でも化学でも語学でも哲学でも考古学でもなんでもいいのだけれど、芸術によって自分を知った我々は「芸術は素晴らしい」と声高に叫んでいるのでしょう。
    そこには何かしら不思議な相似があって、どこかしら根源を共有していて、だから自分たちは「すべて音楽と同じだ」と言葉を発するのかもしれません。
    遠い昔、ムジカ・ムンダーナ、ムジカ・フマーナ、ムジカ・インストゥルメンターリス(あれ、これであってたっけ?)を唱えた人たちも、きっとそんな調和を見出して、その神秘に迫ろうと藻掻いたのでしょう。
    そうして自分自身と向き合うと、意外なことに、方法さえわかれば、自分自身が求めていたものは簡単に掴むことができるとわかります。自分の師はこう言いました。
    「音は既にそこにある。だから力を抜いて、自分の音をよく聴いて。そしてそこにある音を掴む。ほら、良い音がしたでしょう?」
    自分が欲していた音は最初から自分の内にあって、それとちゃんと向き合うことができたなら、あっけないほど簡単に掴みとることができる。このような感覚を昔の人は「内なる神」と称したのかもしれません。それを突き詰め、蓄積した先に得られる結果を、ドキュメンタリー映画『シーモアさんと大人のための人生入門』ラストシーンでシーモア・バーンスタインは「空に手が届く」と表現したのかもしれません。……もっとも、筋力や柔軟性や肺活量の限界等々にそれを阻まれることもありますが。
    さて、我々はどうしてその自分との向き合い方を身に着けたのでしょう。知らない。わからない。
    確かに自分は師から教えてもらったけれど、どんな言葉で、どんな表情で、どんな身振り手振りで、そしてどんな音を聴かせてもらったのか、はっきりと覚えていません。
    それだけではなく、今まで触れてきたすべてのもの……環境と称するそれによって今の自分が作られているのに、そのすべてを覚えてはいないし、当然ながら、わずかばかりの言葉と感覚しか持ちえない自分にそれらを分析して要素を抽出して必要なことだけを記憶しておくなんて器用なこともできない。まして無知蒙昧たる過去の自分にそんなことを求められようはずもない。
    だからそれをまた下の世代に、あるいは未だ気付きえぬ人々にそれを伝えるためには、結果として今ある自分が、その結果を、足りない知恵と言葉と感覚で表現するしかない。
    芸術はそんなどうしようもない我々が選んだ手段の一つ、なのかもしれません。
    もしくは未だ持ちえぬ、また自分を含めた未だ足りぬ、届きえぬ人々が、その無力を嘆き訴えるための手段なのかもしれません。

    さて、つらつらと無為なことを書き連ねてしまい大変申し訳ございません。
    たぶん「これからもかぼちゃさんの作品、楽しみにしてるぜっ!」みたいなことを言いたかったはずです。たぶん。あれ、言ってない?
    願わくば秋に出る……かもしれない新譜で、また新たな感動が得られますようにと。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます。

      お返事したいところがたくさんあるんですが、それだと長すぎるので、ここでは表現のお話をちょっとだけ……。
      今までのお話と重複する部分もあるんですが。
      裸で街を歩くのは、恥ずかしい。
      という話をこの場を借りて、もう一度、改めて。

      街の中で、自分だけが裸なんです。
      裸で、街を歩かされている。
      誰もが、きっと自分を笑っているに違いない。
      そう感じている。
      だって、そうでしょう?
      服は着て当たり前だ。
      あたりから笑い声が聞こえてくるんです。
      ひどく、街を、歩くのはしんどいんです。
      惨めな自分の裸を晒して、どうして堂々と歩けるのだろうか。
      いつも、誰かに、笑われる。
      周囲の人たちはきれいな洋服を着ているのに、だけど、自分だけがその当たり前のものを持っていなくて、素っ裸なんです。
      服であれば、まぁひと目見てわかるけど、だけど実際にその人に足りていないのは「服」ではなく、ぼくたちが持っていて当たり前だと思っているもの。
      それは理想的な見た目だったり、お金だったり、良好な人間関係だったり、まぁ、そういう「当たり前」が足りてない人がいるんです。
      その「当たり前」が服なんです。
      その人は、「服」を着せてもらえず、裸で街を歩かされて、この先、一生、誰からも理解されず、いつも怯えながら惨めに生きていく。
      そして、ある日、その人は、ナイフを持ち歩くようになるんです。
      仮に、通販で購入した、護身用のサバイバルナイフとしましょう。
      それがないと、不安なんです。
      裸である自分を笑われる、という妄執は、言い換えると、「常に周囲の人間から攻撃されていると感じている」というストレスにさらされた個体なんです。
      その個体が、身を守るため、生存本能に従って攻撃性を高めて、そして身を守るためのわかりやすい手段として、刃物を、ナイフを持ち歩いている。
      ナイフがあるから、かろうじて外を歩くことができる。
      それくらい、その人は臆病なんです。
      愛されるような人であればよかったけど、その人を愛する人は誰もいない。
      だって、周囲の普通の人にとっては、攻撃的な、ナイフを持った、理解できない気の触れた人に過ぎないのだから。
      だから、尚更に孤立し、臆病になり、疑心暗鬼に苛まれ、攻撃的にならなければならなかったし、ナイフが必要だった。
      最悪、誰にからかわれても、そのナイフが身を守ってくれるだろう。
      そういう、歪な勇気をくれるんです。
      ナイフを持ち歩いている発狂した人間、というように普通の環境に適応したぼくたちには見えるだろうけど、
      実際には、ストレス環境にさらされて、自らの安全確保のために攻撃的になり、その攻撃手段としてナイフを選択した個体。
      その程度の、自然な個体なんです。
      だけど、その人はどうして自分がナイフを購入してしまって、どうしてそれを常に持ち歩いてしまっているのか、自分でも説明できない。
      ナイフが好きだからとか、そういう、答えになっていない答え、「なんとなく」と答えるしかない。
      自分の殺意を丁寧に分析して説明できるような訓練を受けていない。(そんな客観視があれば、そもそもそういう状況になってない)
      というか、実は、その人自身ですら、自分が裸であるということも、自覚していない。
      周囲の人間が、その人が裸であることを気づけないように。
      そうして「気の狂った人がナイフを持っている」という事件性を想起させる危機的状況が完成するんです。

      でも、もしもこの人に、もっと「自分を表現する」という能力、というかチャンスがあったなら。
      自分を正確に分析して言語化する能力、とまでは行かず、言葉に出来なくとも、自分自身の欲求、理想、不満をなんとか誰かに伝える、表現する能力があったなら。
      その人はどんな絵を描くだろう、どんな小説を書くだろう、どんな漫画を描くだろう、どんな歌を作るだろう、どんな曲を作るだろう、とか。

      その人は、「自分が服を着ている絵」を描くだろう。
      その人は、「自分が服を獲得する小説」を書くだろう。
      その人は、「服を着ている人間を攻撃する歌」を歌っただろう。
      「裸である自分を憐れむ誰かが出現する漫画」を描くかもしれないし、逆に「裸の人に服を与える映画」かもしれないし、彫像かもしれないし、切り絵かもしれないし、ブログかもしれないし、アニメかもしれないし……。
      多かれ少なかれ、そういう表現が出てくるだろうなと思うんです。
      かつて人類が洞窟の壁に、狩猟成功を祈願して獲物の絵を描いたように、自分たちが欲するものを、そこに表現しただろうと。

      創作、表現ってのは、ある意味で、そういうニュアンスがあるなと。

      昨今の異世界転生の作品とか、見てて思うんです。
      あれを好む人たち、あれを描く人たちは、同じく「服を着ていない人たち」だ、と。
      その服とは、「友人がいる」「女の子にモテる」「すごい褒められる」「知識があり、英雄として扱われる」とか、そういう「服」を渇望する人たちの「服を着ている自分の姿」を表現したものなのだろうと。
      服を着ている人たちにとって、「服を着ている絵」というのは、くだらないものに見えるけど。
      裸の人たちにとっては、渇望していた、理想、憧れというか、そういうものなのだろう。だから、感動する。

      自覚の有無はさておき、「服を着たい」という欲求から起因する表現。
      逆に言うと、裸の人間だけが、「服を着る」という妄執を表現できる。
      満ち足りた人間の描く感謝の賛美歌も、まぁ素晴らしいしそれはそれで好きなんですが、それらとは異なる、
      自分にとっての「刺さる」表現は、
      満ち足りていない人間のドロドロした、言語化しきれていない呪い、そういう色が濃いんです。

      裸の人間の創作ってのは、それはある意味で、ナイフなんです。
      そう感じるんです。
      だから、「刺さる」んだと思うんです。
      かわいい曲に、おぞましい歌をのせて、「刺す」ように、ぼくは確かに歌を作りました。
      それは、ぼくにとってのナイフだからなんです。
      ある意味で、通販で買ったナイフを振り回して駅前で通り魔事件を起こす人と、あんまり大差がないのかも。
      ぼくにはそれがナイフじゃなくて、歌だったってだけなんです。しかも幸運にも、的確に自分自身を表現する手段を持っていた。
      良かった。本当に、運が良かった。
      ぼくが優秀なんじゃないんです。
      運が良かった。たまたま、自分には音楽があった。
      それだけの偶然で、本当なら一歩間違えれば、自分は取り返しのつかない結果に至っていた気もするんです。
      手元にナイフはなく、しかし歌があったってのは、本当に、幸運だった。

      秋M3、何かまた、誰かを刺すような歌を作れたらいいな、ともぼんやり思ってます。
      まぁ、実際にはまだ何も手を付けれてないし、なんかもう色々と遊び呆けてますが!?
      何かお届けできるようにがんばってみます!

      今後も、応援よろしくお願いします!

      1. 幾何斐 より:

        たぶんこれは自分が演奏者でしかないことに起因すると思うのですが、何かこう、違和感を覚えてしまったんです。しばらくの間、思考に隙ができるとそのことがチラついていたのですが、なにかとっかかりを掴んだ気がするのでもう一度、コメントさせていただきます。ちょっとどころじゃなく長くなってしまって大変申し訳ないのですが……
        我々「闇に惹かれる子等」の演奏が、現代における日本刀のようなものだって話をします。
        まず、なぜ我々が「蟻を潰すガキを殴るママを犯すパパを吊るす」ようなショーに魅力を感じてしまう「闇に惹かれる子等」であったのかって問題はいったん横に置いときます。
        さて、ではなぜ人は音楽を奏でるのか。その起源をたどるのは非常に難解で面倒で、もしかすると不可能なのかもしれませんが、今を生きる我々に限って言えば、比較的単純な話だと思います。
        当たり前ですが、生まれ落ちたばかりの子供は誰も「音楽」というその得体の知れぬ何かを身に着けてはいません。
        明確に自分はそれを着ていなくて、自分の目の届くところにそれを身に着けた人がいる。
        それに関心を得てしまった我々は、「あれが欲しい」と願うわけです。しかしいかなる方法でもその「音楽」という何かは奪い取ることができず、仕方なく我々は、親にねだるなり、自分で稼いだカネをつぎ込むなりして、「音楽」という何かを作るための道具を手に入れました。
        自分はあの服を着ていない。欲しい。だからそのための道具を用意し、そして作った。それだけのことです。
        それは人によってさまざまな形をしていたでしょう。針と糸で美しい布を縫い合わせ、豪華な、ラフな、扇情的な、機能的な、素朴な、奇抜な、十人十色の服を作ったことでしょう。
        あるいは服ではないかもしれません。
        石を磨き、台座に組付け、鎖につなげたネックレスだったかもしれない。
        バネと歯車を組み合わせて作った懐中時計だったかもしれない。
        そして玉鋼を熱しては叩き、折り返し、重ね、冷やし、研ぎ、柄と鞘に収めた日本刀かもしれない。
        ここで重要なのは、「現代における」日本刀だってことです。
        それを持ってる人を見て、飾ってある様を見て、「欲しい」と思ったのは確かです。
        でも「それがあれば俺の身を守れるな」とは考えません。
        その美しさに、あるいは「日本刀」というその名前が持つ歴史に惹かれたのであって、自分でその刀を振るって人を斬ろうなどと考えたわけではないのです。
        「斬る」という本分を離れて「美術品」として飾られるその様は、「学問」や「宗教儀式」に根本の一方を持ちながら現代ではほぼほぼ「娯楽」として扱われるようになった音楽とよく似ていると、そう思うのです。
        さて、音楽を始めたその理由はかように単純でした。では我々はなぜ音楽を続けているのでしょうか。
        まぁその理由こそ非常に様々であると思います。生活のために、仕事だから。ずっと同じ服を着るのはダサいから。惰性で。評価を得るのが気持ちいいから等々。
        でも一番大きいのは、未だ自らの抱く理想像に届いていないから、だと思うのです。
        ひとまず最低限の道具を揃えて、「音楽」という何かを作り上げ、身に着けることには成功した。でもそれがみすぼらしいものだと、我々は思い込んでいる。
        確かに音楽を作り始めた当初、それはとても拙い物だったろう。他人の服と比べればそれは明らかだ。自分の演奏は遅い。間違いが多い。途中で止まる。簡単な曲しか弾けない。思った通りのアーティキュレーションがつかない。
        それでも続けるうちに、いくらかマシにはなったはずだ。
        縫製は均等になり、石は澄んだ色を映し、時計は精密になり、刀は自然な反りと均整の取れた波紋を美しく輝かせるようになったはずだ。
        でもある程度進んだところで、わからなくなる。「俺とアイツの作品と、どっちが優れているんだ?」
        売上とか世間の反応とか、そういう目に見えるもので比較すればわかりやすいが、果たしてそれは自分の内にある「理想像」と一致しているだろうか。
        自らの演奏を磨き上げる時、他者のものを並べて比較しても「ある程度しか」参考にならない。刀と同じように、完璧に同じ演奏などどこにも存在しない。一致するのは焼き増しされた写真と、量産された音源だけだ。
        結局のところ、最終的には、己の中にある理想像と対話するしかない。
        その理想像は、これまでの自分の経験全てが蓄積された結果だ。生まれ落ちたその時に全て持ち合わせていた、神からの授かり物などではない。その経験すらも神が与えたもうたものだというなら、その表現も正しいものかもしれないけれど。
        けれど、目の前にある作品と向き合ったときには既にそこにある。それは一つの作品を磨き上げるそのうちにまた更新されるかもしれないけれど、やはり人の手で、意図したようにその姿を歪め、あるいは正すことは難しい。理想像ってそういうものだと思うんです。だから内なる神とも称される。
        そしてそれこそ、我々が着たがっている服なんじゃないかなぁと。
        そう、服が着たいんです。不安を取り除くためにナイフを握ったわけでは、ないんです。きっと。
        ただもともと、服を繕う道具を持っていた。「音楽」という何かを身に着けることができた。
        だから、もし音楽ではない何かの『服』を着ていないんじゃないか、という妄想に駆られ、不安に押しつぶされそうになった時、我々は「ああ、俺には音楽があるじゃないか」と、もともと持っていたそれを掲げるんです。加えて幸いなことに、自分はそれがみすぼらしいものではないと、信用する人に評価してもらえた。だから安心していられる。
        かぼちゃさんも様々な賞を獲得したり、自分たちのようなファンがいたりして、誇り……という表現が正しいかはわかりませんが、少なくとも、服を着ていない「恐怖」に押し潰されるようなことはないからこそ、「1を出してはいない」と言えるはずです。
        もしかすると、相変わらず我々は何かの服を着ていなくて、でもそのことを理解できていなくて、その恐怖を作品に反映させているかもしれない。それゆえに「闇に惹かれる子等」であるのかもしれない。
        けれどナイフを手にする必要はない。だってもともと、他人に対して強がれるだけのファッションは持っているのだから。
        強がるために「音楽」と銘打たれたナイフを手にしたわけでは、無いと思うのです。
        もしかしたらかぼちゃさんの記述とは何の矛盾も無くて、自分が何かしらを勘違いしたままなのかもしれないけれど、たぶん自分が感じた違和感はそれだと思うのです。
        しかし、我々が手にしたのは日本刀だった。純粋な服ではなかった。元来は斬る用途だったそれを、なぜかファッションとして持ち歩いているのです。
        ここにどうも、曲や詩を書く人と、演奏しかしない人のズレがある気がします。
        我々はひたすらに、美しくあれと願いを込めて、鋼を叩き、磨き上げている。演奏をより良いものにするために、刺されと願う一種悪意じみたものなんて、入り込む余地が無いんです。それをやるとどうしても不自然なものが出来上がる。音楽ってそういうものなんです。だから「現代における」日本刀なんです。
        だというのに我々は、心のどこかで、この演奏が誰かに刺さればいいと、そんな妄想をしているんです。
        (でも特に、物語を作るとなると、「刺す」ために作品を構成するのって、割と当たり前な気がします)
        日本刀の愛好家は、その刀身を手に取り、矯めつ眇めつしたいと願うでしょう。そしていつかその権利を得る。「これは良いものですねぇ」と言いながら、好きなように眺め回す。そして「感動した」といい、満面の笑みで刀匠の肩を叩く。あるいは感動して涙を流す。あるいは、自分も剣士や刀匠になりたいという。
        それで刀匠は喜ぶんです。もちろん。というか、その反応が欲しいんです。それでいいんです。それで満足するんです。
        そのはずなんです。
        でも我々はどこかで、それ以外の反応を期待している。
        刀身を手に取り、眺めるその時に、何かが起きてほしいと、心のどこかで、微かに願っているんです。叶わなくとも良い願いを、何ならそのまま墓まで無念として持っていきたいくらいのささやかで、むしろ手放したくない、満たされて欲しくないくらいの願いを。
        その刀身を手に取る時、感極まった愛好家は、しかしその重さを想像しきれず、うっかり手から刃が零れ落ちてしまう。
        ほんの少し、ほんの少し服を、肌を、刃が撫でただけ。
        それだけで、刃は容易く肌を切り裂き、鮮血が滲み出る。
        そんな光景を、我々はあくまで「叶わなくとも良い願い」として抱いている。その切れ味が証明される光景を。
        自らが鍛えた刀の美しさに心を打たれてほしいのとは別に、ちょっとだけ、妄想する。
        そんな気持ちを込めて刀身を鍛えたわけでもないのに、固く硬く厳重に、モラルやマナーやルールや善意やらで鎖していたはずの害意が、ほんの少しだけ、顔をのぞかせるんです。
        でも我々が手に取った刃は「音楽」だ。だからそれが誰かを物理的に傷つけることなんてない。だから堂々と我々はその刃を掲げる。
        誰かに刺されば良いと、日本刀という形を選んだかもしれない。
        けれどただ「美しくあれ」とだけ願いながら、それを鍛え続ける。
        そして誰かの家で、あるいは美術館で、「まこと美しきもの」として飾られる。
        そんなどこか矛盾めいたものが、我々闇に惹かれる子等(今更だけどこの自称クッソ恥ずかしいな)の演奏にはあるような気がするんです。
        それを指して「一歩間違えれば」「片足突っ込んでる」と非難されるなら、まぁ、仕方ないかなとも思うんです。そしてそう言った人たちに対して「表出する形が違っただけで、君たちも同じだぞ」と言い訳がましく返すのも許してほしいかなとか、そんな甘えを抱いて自分を正当化するんです。
        あるいは、ハンマーで例えた方が良いかもしれません。
        当然、槌とは叩きつけるものです。でもそれを振り回しながら、我々は「刺されば良いなぁ」なんて馬鹿げた妄想をしてるんです。でも槌で刺そうとすれば、どうなるでしょうか。
        刺すための武器として、それはあまりにもデッドウェイトが大きすぎます。
        刺すにはその槌の角をうまいことめり込ませるしかありません。
        非常に効率が悪い。レイピアや鎧通しを使うのに比べて明らかに不自然で非効率な運用。
        刺すための演奏ってのはそれに近いです。どうしたって無理が出るんです。槌を槌として振るいながら、うっかりいつか刺さることを期待していたほうが、よほど多くの戦果を得られるんです。(ただし、歌ううえでの表現の着想を『刺す』ことから得るってのはアリだと思います)
        とまぁひどく取り留めない感じになりましたけど、演奏者としての自分は、自らの理想像を湛える器として、深く、しかしフラットでありたいなぁとか、そういう妄想でした。

        1. kabotya より:

          コメントありがとうございます。

          勘違いでなければ、もしかして、本当にこれは、ぼくの恥ずかしい思い上がりではなければですけど、
          文章を読んだ感じ、もしかして、
          ぼくの「歌詞」とか、「物語」とか以上に、ぼくの純粋な「音楽」を愛していただけてるんでしょうか?

          たとえば、ぼくが何故V系ロックに子供の頃に感動したか。
          それは、ぼくが言えないことを彼らが代弁していると感じたからです。
          彼らの歌詞は、要約すると基本「気に食わねぇ殺す」「気に食わねぇ死ね」しか言ってなくて、
          幼いぼくはまさにその言葉を言うことを禁止されていて、しかし「言いたかった」ということを自覚していなかった。
          それを、世の中にはこんなにも「歌」という形であっさり言ってしまえる人がいるんだ! と、そのスタイルに感動して。
          そこに惹かれたなと。
          それこそ、ぼくにとって「洋服を着る」という行為だった。
          「嫌なことに、嫌だ」とはっきり意思を示す。
          それが、当然の行為が、洋服だった。
          ぼくが我慢していたような、服従に対しての反逆が、とても「自分もそうありたい」と感動させた部分なんです。
          実際には服を着ていなくても、服を着ているような錯覚であっても、それはとても心地よいものだった。
          その文化的な気流が、ぼくの作品にも流れている。

          同様に、
          ぼくは多くのリスナーが、ぼくの曲に対して、おそらくまぁ「歌詞」が一番、聞いた人の心を抉るだろうと考えてます。
          それが一番の主戦力だと思っているし、その寓話に込めた皮肉なんかに、人々は心打たれるだろうと。
          人々が目を背けていたものを、「こういう忌々しい世界があるぞ」と、誰もが薄々感づいていながら、しかしまっすぐに見ようとしないものを、
          歌という形で、人々の心を打つために、まさに歌詞を書き、その歌詞のために、曲を書いた。
          ぼくの書いた歌詞が琴線に触れるのならば、それはそういうドロっとした暗い部分を我慢していた人が、共感をするだろうと。
          それが、「闇に惹かれる」という歌詞の表現ですね。
          そうでないなら、世の中には他にも素晴らしい音楽が溢れているので、
          純粋な音楽なら、実は別にアイドルポップスでもよいし、クラシックでもいいし、まぁとにかく、ぼくの曲を聞く理由にはならないんじゃないかと。
          そういう考えもあって、まぁ理由がない限り「インスト(つまり、歌詞を書かない、直接的に物語を書かない)」曲はあんまり作ろうとしてないんです。

          ぼくの曲の一番の売りは、この歌詞なのだ。
          みんながぼくの曲を愛するのは、ぼくにしか書けない、この歌詞が大きいだろうと。
          そう思ってたんです。

          思ってたんですが、そうではなく、たとえぼくのエグい歌詞がなくとも、
          ぼくの書くメロディ、コード、技法、サウンドメイク、歌声、歌詞の韻(言葉の意味ではなく、聞いて心地よいと思える純粋な音としての歌詞)なんかを聞いて楽しんでいる人も、稀にいるのかもなと。
          歌も、演奏者として、歌詞の意味よりもぼくの歌唱の表現力に感動してるのかなと。
          それはもう、純粋な「音楽」に対する最大限のリスペクトに近いです。
          「よい歌詞だったから惚れたんじゃない、よい哲学だったから惚れたんじゃない、よい音楽だったからこの曲に惚れたんだ」
          もしそうなら、作曲者冥利につきます。

          そりゃすごいことだ。
          確かに工夫している部分はたくさんある気はするけど、そこまで他者と張り合えるような、純粋な強みがないと自分は感じていたんですよね。
          わざわざ得意武器である、歌詞と、歌声を封じて、自分より強い敵と戦う理由がないように(まぁ、そうやって戦って受賞した賞もありましたが)、
          そこまで、自分の、純粋な音としての「音楽」というものに関してはおそらく関心は持たれないだろうと。

          だけど、自分の曲を刀に表現するなら、
          まぁ、刀匠は明確に「殺意」のようなものを込めて刀を研ぎ澄ませて、
          それは「サイコロをふって1を出したものを殺す」と言うルールに対して突きつける――
          そう、思って、人を傷つける道具として、そのために刀を打ちました。
          しかし、その刀を打った刀匠の目的「人を傷つける道具である」と言う意味を突破して、
          「これは、美しい芸術品だ。これが人を傷つけるから好きなのではない。目的はそうかもしれんが、純粋な刃文や、作りの丁寧さに心惹かれる」と感じる人がいるというのは、
          自分の中でも本当に、存外のことです。

          そういう意味なんでしょうか?
          そういうのが、演奏者としての視点、という意味なのかなと。

          まぁ何にせよ、ありがとうございます。
          コメントいただけて、励みになります。

          1. 幾何斐 より:

            クッソ長い自分語りになってしまうのをどうかご容赦ください……
            とある貧乏人を仮定します。
            あまりにも貧乏すぎて、ゴミ溜めから拾い上げたものでしか生活できない、そんな男です。
            彼はコップをただ一つしか持っていない。ゴミ溜めに捨てられていたものはどれも割れ、欠けていて、ろくに水を湛えることすらできない。
            けれどひとつだけ、非常に良い状態のコップを見つけた。奇天烈なキャラクターの描かれた、その薄気味悪さゆえに捨てられたであろう、そんなコップです。
            貧乏人は言う。「俺はこのコップが大嫌いなんだ。こんな気色悪いものを好んで使いたがるわけがないだろう」と。
            しかし続けて言うには、「朝起きて喉がカラカラに渇いているとき、この一つしかないコップに水を汲んで、一気に飲み干すんだ。それが何より美味い」と。
            またとある度の過ぎたオタクを仮定します。
            特定のキャラクターへの愛があまりにも過剰な男です。
            ある時、そのキャラクターをプリントしたマグカップが発売された。オタクはすぐさまそれを買った。
            いわく、「は~○○たんカワユス~萌え~マジネ申~~~」と。
            そのマグカップを手に取り眺めまわし、撫でまわし、舐めまわし、ついに水を汲み、それを飲み干す。
            いわく、「は~○○たんのコップで飲むお水は美味しいな~」と。
            この二人は、まるで違うものを観ているんです。貧乏人はその渇き故に、水に価値を見出した。オタクはキャラクターへの愛ゆえに、コップに価値を見出した。
            しかし彼らは口をそろえて「お水おいしい」と口にするんです。
            たぶん、そういうことなんです。
            僕らは貧乏人で、殆どの人々はオタクだった。
            それも当たり前なんです。だってほぼすべての人間は社会に属して、言葉の使用を余儀なくされている。望むと望まざるとにかかわらず、言葉に価値を見出すことを強要されている。
            誰もが常に言葉と向き合っている。人間という種は誰しもが言語というものに精通している。
            それに比べ音楽はどうだろう。そう、言葉と比べれば、圧倒的に、「音楽なんざ無価値なもの」なんです。なんせ言葉と同じようには、人はそのフレーズやらなんやらに共通の意味を見出せず、故に意思疎通の手段として用いることができない。言葉の助けを借りない音楽は、あまりにも無力なんです。
            しかし僕らは、言葉よりも先に音楽があった……というのはさすがに過剰表現ですが、幼少の頃から器楽に親しみ、演奏者としての在り方をナイフの代わりに掲げて生きてきた僕らは、言葉よりもずっと長く濃密な時間を、音楽と過ごしてきたんです。
            だから、人より強く、価値を見出してしまう。本来無価値なはずのそれに。
            だから僕らは詩を観ることができない。少なくとも、その音楽を聴いているその間は。
            蚊に刺された部分は痒くなるじゃないですか。自分は子供のころはよく、痒さを我慢できなくなった時に、氷を腫れた肌に押し当てました。「冷たさ」という強い刺激がある間は、「痒さ」を自覚できなくなる。
            それとたぶん同じなんです。
            言葉よりもずっとずっと強く、音楽に価値を見出してしまう僕らは、「音楽」がそこにある限り、「言葉」という刺激を受け取ることができないんです。
            だからむしろ、どちらかと言えば、僕らの方こそ恥じるべき話なんです。それは作詞家の意図を無視する行為で、そして僕らは少数派だ。
            少し話を戻します。貧乏人もオタクも、等しく「ウマい」というんです。オタクはそこに付属する「言葉」の方をこそ観ているにもかかわらず。だから貧乏人の僕は毒を吐く。「アイツらは音楽に関心なんかねぇくせに、詩だけを観て、知ったような顔して音楽を語りやがる」と。
            しかしそう口に出せば、オタクは反論するでしょう。「お前だって詩を観てないじゃないか。お前こそ、作詞者に失礼だ。お前ごときが歌を語るな」と。
            たぶん、どっちが偉いとか、正しいとかって話じゃないんです。音楽と文学両方の価値に気付いた者こそが正しい、というわけでもないと思うんです。
            おかしな話ですが、作品は作者のものではないんです。
            「価値を見出すあんた次第」なんです。
            作品は世に出たその時点で作者の手を離れる。そこでいかに曲解されようと、ありもしない行間を読まれようと、込めた想いを無視されようと、それを咎める権利は作者にはないと、そう思うんです。
            もちろん、読者が小節を読むときと同じように、作者が感想を見て喜んだり悲しんだりするのもまた、勝手なんです。ただネガティブな意見が漏れたときに、不快に思う人が多いというだけで。まぁ、「この作品からこの価値を見出さぬ者は無能だ!」と言う人はしょっちゅう見かけますが、さすがに作者に向かって「お前が俺の感想を読んで悲しむ権利などない!」と言う人は見かけませんけどね……滅多に。
            やたらと前置きが長くなってしまいましたが、つまり、僕がかぼちゃさんの曲に見出した価値は、まさに音楽性にこそあるのです。少なくとも曲を聴いている間、僕はかぼちゃさんが丹精込めて研ぎあげた「詩」というその刃を身に受けることがない。物理無効……というわけではないんですが、メインディッシュについてきた付け合わせ、のようなものなんです。
            別々に食べることはできる。けれど同時には食べられない。
            そして食べないことを選ぶのも可能。
            とある、自分の大好きなアーティストがいます。その人はとても素晴らしい歌を歌う。でも自分は、その詩が大っ嫌いなんです。とても下品で、下劣で、低俗で、汚い。自分の目には、そう映る。
            けれど自分はそれを無視することができる。というか、メインディッシュに食らいついているその間、それは視界に入ることすらないんです。同時に味わうことなど到底できない。
            「音楽」と「言葉」は、可分なんです。それらは結び付いてお互いの価値を高めることもできるけど、どちらかだけを受け取ることもできる。自分の意志……というか、表層意識でそれを選び取ることは難しいけれど。
            だから自分は、大っ嫌いな詩の添えられたその歌を、けれどとても良い気分で、何度も何度も聴くんです。
            特に子どもとか、下品でエロティックな詩の意味を全く知らぬまま、熱く歌ったりすることってあるじゃないですか。普通の人は言葉に対するアンテナが発達して、いずれ失ってしまうその感覚を、僕らは未だに持ち続けている。あまりにも器楽と寄り添い続けたがために。
            そういう感覚が、僕らのように歌も歌わず、曲も詩も書かず、ただ楽器しか持たない人にはあるようなのです。
            おそらくそれが理由だと思うんですけど、KAC最優秀賞としてΣmbry∅が発表されたとき、多くの人は驚いたようですが、自分はそりゃもうスッゲェかっこよかったし冗談抜きで涙してましたけど、驚きはしなかったんです。
            当然、かぼちゃさんならこういう曲を書けるだろうと、そういう確信があった。
            確かにかぼちゃさんにしてはちょっと珍しい楽器編成でしたけど、リズム、強弱、アーティキュレーション、ドラマティックな波や流れ、そうしたものが確かに「俺がかぼちゃだ」と主張してた、ように聞こえたんです。それはとても耳に馴染みのあるものだった。だから、驚きはなかったんです。
            音楽しか観ることのできない自分だからこそ、そう思えたのかな、と。
            しかし面倒なことに、多くの人は、音楽に余計な屁理屈を持ち込んでしまう。自分の理想像を見失ってしまったがために、何か関連のありそうな知識をかき集め、どうにか無力感に抗おうと、どうしようもなく頭上をふさぐ天井を破壊する術を探る。
            「これはこの時代の作品だ。あの時代の楽器はこうだった。政治的な背景はどうだった。作曲者の遺した手紙にはこう書かれていた。だからこの作品は、こう演奏されるのが正しいのではないか」とか。
            具体的には、「強弱をつけない」「機械的に均等なテンポを忠実に維持する」とか、もっと細かく言えば「ここでクレッシェンドする」とか「この音を最も強く弾く」とか。
            で、その具体的な目標が達成されたとき、演奏者は自分の思い通りの演奏ができたことそれ自体に快楽を覚えてしまうんです。
            その快感を、「これこそが正しくあるべき演奏の姿だ」と誤解してしまうんです。それが「どう聞こえるのか」を知らぬまま、「これが良い演奏だ」と思い込んでしまうんです。
            そして音楽の一番厄介なところは、その思い込みが思い込みでしかないということを証明する術が、存在しないことです。
            僕はそんな勘違いをした連中をたくさん見てきた。そう思っているけれど、それが勘違いであることを証明できないし、同時に僕こそが勘違いをしていると思う人もいるだろう。そのどちらもがおそらく、正しくはない。
            けれど、自分の理想像との向き合い方を知っている人々は、その評価の仕方を知っている。他人である演奏者本人がどう考えていたかは妄想するしかないとしても、少なくともその演奏が、理屈によらず、あくまでも自然で本能的な、音楽的な観点において、自分にとって快であるかどうかを、判断できる。
            多くの人が見失ってしまうその理想像を、けれどかぼちゃさんは、見失っていない。自分はそう感じているんです。
            よく「ビシッと決まらない」みたいな言い方をされるじゃないですか。まさしくそのとき、自己の内なる理想像と対話しているのだろうと、そう思うのです。
            もっとも、自分はこの感覚を正しいものだと信じているけれど、また他の人からは正しくないものであり、自分自身がその正しさを証明する術を持ちえぬ限り、永久に、ただの個人が抱く妄想と区別がつかず、故に宗教と似た部分もあり、まさしくそれは、自分が自分勝手に抱く「音楽」というイメージに対する信仰にすぎないのだけれど。
            もしかすると、子どものころは誰もが、理想像との向き合い方……というよりは、素直に本能的な快を受け入れる方法を知っていて、しかし知識や経験によって見失ってしまうのかもしれません。
            自分はもう幼いころの感覚は忘れてしまったけれど、実際、割と最近まで、理想像を見失っていました。何が自分にとっての「良いもの」であるかがわからなかったんです。そんな答え、ずっと自分の内にあったというのに、それが見つけられず、それゆえに他人の意見に頼り切り、その指示を受け入れ、しかし馴染まず、ずっと天井とにらめっこしていました。今の師と出会わなければ、一生そのままだったでしょう。師がその天井を押し上げてくれた。天井の押し上げ方を教えてくれた。
            しかし時折、いるらしいのです。自らの理想像を見失わないがために、最初から自分の手で、天井を押し退けてしまうような人たちが。自分の進むべき道筋を誰に教えられずとも理解する人たちが。
            その人達はほんのちょっとの、ベテランが持っているノウハウとか、ちょっと特別な技法とか、そういうものを身につけるだけで、驚くべき速度で上達していく。まるで最初から天井なんてものが存在しないかのような速度で、彼らはどこまでも高く昇っていく。故に隔絶し「天才」と呼ばれ区別される。
            僕は僕の価値基準で、かぼちゃさんをその「天才」だと思っています。
            もしかぼちゃさんがご自身の、「純粋な音としての『音楽』」に自信を持てない、持てていなかったのだとしたら、それはそもそも音楽というものが点数化できない、評価のしようがないものだからだと思うのです。もし全てに正しく点数をつける神がいたとしたら、その結果に、きっとかぼちゃさんは自信を持っていただろうと。
            芸術は自分の好みかどうか。それでしか判断ができない。
            どんな立派な先生でも、コンクールで審査員を務め、点数をつけることを余儀なくされたとき、結局は自分の価値基準に従わざるをえない。
            だから自分の声は所詮70億ある意見の一つに過ぎず、どれだけ正しさを訴えようとしたところで、もしかしたら共感する人はいるかもしれないけど、誰も理解はできない。論理的に証明する術が無い。
            けれど、少なくとも僕にとって、かぼちゃさんが放った弾はまさしく、僕を貫く「70億の一発」でした。
            もっとも、かぼちゃさんが叩き潰すつもりで振った棍棒が、どういうわけか、偶然にも、僕には突き刺さっただけなのかもしれない。けれどその違いはおそらく、重要なことではない。自分が感動したかどうか。それが自分にとっての全てです。
            現代においてバッハとモーツァルトの作品が多少のジャンルの違い、ちょっとした棲み分けで共存しているように、僕の中では、そうした偉人たちと同じ列に、かぼちゃさんもまた、並んでいるんです。
            もしかしたら、彼らほど傑出してはいないのかもしれない。でもそれを証明する術はない。もし売り上げや知名度というものを排除した部分に芸術の真価を求めるのであれば、ですが。
            minoriというブランドの「eden*」というノベルゲーム作品に、確かこんな感じの台詞があったと思います。
            ――錯覚かもしれないものを確かなものとするために、人は生きていくのでしょう――と。
            それはもうちょっと広い意味で言っていた気がするのですが、今の自分はその目的をもって生きています。
            自分の理想像に対する、音楽に対する尊敬は、まさしく錯覚にすぎず、妄想に、妄信にすぎない。
            けれどそれと向き合い続けていれば、いつか確かなものとできるのではないか。そのときまさしく、「空に手が届く」のではないかと。
            あるいはすべての芸術家が、そのために生きているのかもしれないと、そう妄想するんです。

          2. kabotya より:

            彼は、たくさんの宝石を持っていたんだと思うんです。

            だけどある日、彼はそれらを、
            自分が「宝石」と信じているだけで、実はただの「石塊」なのではないかと。
            そう疑ったんです。

            疑って透かし見れば、なるほど、
            宝石と信じて積み上げたそれらは、全部、すっかり石塊に変わってしまった。
            「やった! 魔法が解けた!」
            彼は大はしゃぎをするんですが、
            「石塊を宝石と勘違いして見せびらかしていたなんて、恥ずかしいことだった」
            そう思って、それらを隠すようになってしまった。

            更に最悪なことに、彼は不相応にも、たくさんの人に愛されていたんです。
            「お前は素晴らしい宝石を持っている」
            そうやって、石塊に名誉な賞までたくさんもらってしまった。
            人を騙しているという、妙な罪悪感に苛まれた。
            にも関わらず、彼は自分の持っている石塊が宝石に見えるかどうかを不安に感じて、品評会に出しては「宝石です」と他人からの鑑定書をもらって、「良かった、石塊だとバレてない」と安心しているんです。

            宝石とは、
            それは子どもが河原で見つけた丸い石ころを持ち帰って、
            机の引き出しの奥に大切にしまい込む程度の行為だったと思うんです。
            あれが、石を宝石に変えていた尊い魔法だった。
            何も、きらきらと輝いていたり、高価である必要も希少である必要もなかった。
            だけど、ぼくらはいつか小賢しいおとなになって、高価であらねば、希少であらねば、輝いていなければ宝石じゃないと、石を勝手に鑑定する。
            そうして、幼い自分が拾ってきた本当に大切な宝石を、
            「全部小汚いただの石だ。拾ってくるな」と捨てさせてしまった。

            そうやって、ぼくたちは自分が好きなもの、夢中になれるものを失っていく。
            逆に、嫌いなものばっかり増えていく。
            これは、ぼくたち自身を、つまらない人間に変えてしまうだろう。

            彼がまた、いつか誰かと「きれいな宝石だ」と自分の拾ってきた丸い石ころの美しさを分かち合えればよいけど、

            彼は今、高価で希少で輝く宝石を探して、暗い採掘場で絶賛迷子中ですね。
            しばらく帰ってこなさそう。

            芸術って、そういう難しさをはらんでますよね。
            まあ、がんばります!

  26. 通りすがり より:

    よくいう生きる為には殺す事にも繋がるというのは間違いないけれど、殺す事が=悪ではない。殺すという行為が、殺す相手やそれに関わる存在に理不尽な思いをさせてしまうという事を知りながら、開き直ってそれを良しとして生きる事が悪なのであって、それらを理解し、極力理不尽な思いをさせない、または絶対させたくない、という想いを持って、心苦しくとも生きるのならば、それは悪ではなくなる。またその状態は善でもなく、ただ、これで良しとなる。何かにつけて善悪の二極論にもっていき対立させる意図が、なんらかの存在にあるのかどうかまでは知らないが、そういう危うい方向へゆくのはやめるべき。

    また、悪人を生むのは、いわゆる偽善者であり、偽善者を生むのは悪人でもある。どちらか先かといえば偽善者が先で、まず偽善者はその偽善的行為が悪人を生むということを理解し考えを改めなければいつまでたっても悪人になってしまう人も減らない。よくいう、やらぬ善よりやる偽善、という言葉は、取り合えず偽善をやっていれば、現状維持がなんとなく可能だからであり、これは恵まれた立場にいるものの怠慢に他ならず、これを知った上で言っているのなら、その人は偽善者ではなく悪意を持った存在となる。詐欺師が善人面して弱者を騙しているのと同じ構図です。

    偽善者がなぜ悪人を生むのか。偽善をすることでよい面もある一方、偽善で在るがゆえの考え方から来る誤った選択が別の何かに影響を与え、それが歪みとなり、また別の誰かの偽善からくる歪みと合わさり大きくなり、というのを繰り返し、大きな問題となる。この小さな積み重ねは一見してどこに影響が出るか解りづらく、対応するにしても全て後手後手にまわる。結果として、何か解決してもまた別の問題が生まれるという、現代日本に限ったことではないが、問題が山済みの状態となる。世の中が複雑化すればするほど問題も多様化していく。結果として誰かを救うという偽善の影で、助からない、助けられない、理不尽な思いをする弱者が犠牲となる。その犠牲になる弱者達を偽善者達は余すところなく救えるのでしょうか。

    結果として言えることは、やらぬ善よりやる偽善ではなく、偽善をやめて良しをやる。がよいのです。良しは善でも悪でもなく、やれば良くなる、善も悪も生まない負の螺旋ループを絶つ手段なのです。本気で世界の平和など願っていない人達の自分よがりな言葉に惑わされず、正しい選択をしましょう。正しい答えは人それでしょうが、状況状況における、良しとなる正しい選択は、本気で世界の平和を願うならば自分自身で解るようになるのです。

    1. kabotya より:

      コメントありがとうございます。

      自分は、善も悪もなく、そして必然、善に対して「偽物」「本物」というものも何もないだろうと。
      そう思います。
      必然、悪人もいないし、善人もいないし、ましてや偽善者なんていないし、だけど、
      多分、通りすがりさんのいう「偽善者」はぼくも見たことのあるタイプの人だろうと。

      なんというか、正義を、
      「人を攻撃したいとき、その人を攻撃をする際に生じる社会的ストレスを減免する心理的防衛」
      だと、ぼくは定義しているんです。
      つまり、「攻撃したい人を攻撃するために、正義というものを開発した」と。

      最初、「正義」は「社会秩序を維持するためのルール」みたいに定義づけようとしたんですが、
      それだと、社会秩序を維持するためのルールであるにもかかわらず、「正義」ではない、と言われる事象があったり、
      あるいは、社会秩序を維持するわけではないのに、「正義」と名前をつけられている事象もあったり、
      ちょっと、その人がどんな社会秩序に帰属するかにもよるし、人によって、主観によって、千差万別がすぎるな、と。
      だから、「正義」同士でぶつかってしまう、みたいに、「正義」の客観的定義が難しくなってしまっているのだと。
      人によってころころ意味が変わってしまうから、上手く話がまとまらない。
      そうではなく、全てのあらゆる人間の「正義」にあてはまる、共通項が何かないかなと。
      それだけ抜き出したかったんです。
      誰が観測しても、「正義」にはその側面があるという共通項というか。

      自分が抽出したのが、まぁ多少は恣意的な部分もあるんですが、
      一つ「正義があると、対象を攻撃がしやすくなる」でした。
      そこから定義づけて、
      「人を攻撃したいとき、その人を攻撃をする際に生じる社会的ストレスを減免する心理的防衛」
      と、したんです。

      原初、国家などなく、狩猟採集によって、小さな群れで生きてきたぼくたち人類は、
      群れで協力することによって生存を図ってきたんです。
      群れの中で、その群れに協力せず、秩序を脅かす個体が発生した場合は、
      当然ストレスを感じて、その個体を攻撃して排除しただろう。
      わがままな、残虐で身勝手な個体とかを排斥するのは、生存のための戦略の一種だったと思うんです。
      ある意味で、残虐な殺人みたいな犯罪が発生した場合に、誰もが犯人に対して「こいつを虐殺するべきだ」という反応も、
      原初から連綿と続く、生存本能なんだろうと。
      群れ全体を脅かす(ひいては自分を脅かす)この危険な個体をスムーズに排除するための攻撃本能、
      それに対してぼくたちは「正義」と名前をつけて呼んでいるのだと、そう感じたんです。

      正義を上手く利用すれば、ぼくたちは想像を遥かに超える行動力(あるいは残虐性)を得る。
      たとえば、侵略戦争のときとか。
      どうしてもぼくたちは、敵に対して、侵略をしたい。
      相手の食料や、土地、人材、財産なんかを、奪い取りたい。
      だけど、ぼくたちは理由なく人を殺すことに対して、一定以上のストレスがかかる。
      共感性から来る罪悪感だったり、あるいは社会秩序や倫理に対する違反行為だったり。
      それらストレスを、軽くする、あるいはゼロにまで持っていけるもの。
      そんな都合の良いものがあれば、人はもちろん、それを使っていいし、使うだろう。
      それが、「正義」だったと。
      それは「たくさん食べ物が欲しいから」という身勝手な理由での殺人ではストレスが多すぎるが、
      「家族のため」「神様のため」「愛する国のため」「先祖のため」「未来のため」「生きるため」でもいいし、
      要するに、責任を軽くして、ぼくたちに「他者からものを奪う」行動を促すだろうと。
      助け合うという社会性を獲得したぼくたちを、しかしその助け合うという社会性を捨てて、
      奪い合うという、もっと原始的な生存戦略をとらせることに成功するんです。

      不思議で皮肉な表現ですが、正義って「良い側面」もあるし、「悪い側面」もあると思うんです。

      実際、戦争になって人を殺さなければならないとき、
      一々、銃の引き金を引く際に「人を殺してはいけない」という迷いが生じていては、
      その迷っている間に敵に撃ち殺されてしまう。
      でも、「ここで銃の引き金を引かなければ、おまえの祖国は侵略されるぞ」という正義を徹底して教育しておけば、
      あるいは洗脳しておけば、
      正しくその個体は迷いなく、引き金を引いてくれるだろう。
      戦場において、より素早く迷いなく引き金を引くことができた個体が、その環境では適応して生き残りやすいとして、
      じゃあやっぱり、「正義」は個体の生存戦略として正しく機能したなと。
      「正義」は、皆が言うような尊い概念ではなく、攻撃的な行動を起こさせる際のストレスを軽減する、
      ただの便利なツールだと思うんです。
      最初に攻撃対象があって、
      攻撃対象を「悪」と呼ぶことができれば、逆説的に自分たちは「正義」になれるし、
      自分たちを「正義」と呼ぶことができれば、逆説的に攻撃対象は「悪」になれるし、
      それらは本当に都合よく、コインの裏表でも、光と影でも、表現はどうでもいいんですが、
      要するにどっちが欠けても存在できないものなんだと思うんです。
      ある意味で、仮に、この世から「悪」を消す方法があるとすれば、
      それは、皆が「正義」を捨てたときに達成できるんだろうと。
      何事も全て、正義なんて都合の良いものに責任を預けずに、ちゃんと、客観的な理由によって、
      ぼくたちは責任をもって決断し、有益だと思う行動をそれぞれ行い、それを理解するべきだと思うんです。

      正義は、
      使いこなせれば、それは人に勇気と、行動力を与えてくれるものだと思うんです。
      だけど、逆にそれに使われてしまうと、正義に操られて、
      いたずらに他者に攻撃をしてしまう無責任で、意地悪な人間になる。

      ぼくは彼らの持つ、その「正義」を全部剥がしたい。
      誰もが負いたがらないその責任を、もう一度ぼくたち自身に背負わせたい。
      人によって様々な正義があると言うようだけど、そんな主観的な観念じゃなく、
      ぼくたちがなぜ暴力的な決断を下したのか、それは客観的な「利益になるから」であってくれと。
      そうすれば、誰もが暴力的な決断を下すときに、少し冷静さを取り戻すと思うんです。
      インターネットでリンチを行おうとする人たちも、熱を帯びたように、
      何かに操られたがっているのは、きっと責任を追わずに、暴力的なことをしたいからなんだと思うんです。
      それは、とても気持ちがいい。
      「悪」が群れの中に発生したときに、自動的にストレスを感じ、そして自動的にそのストレスを解消するべく、
      その「悪」を残虐に殺したいと、自然に思うだろう。
      だけど、それは「悪」じゃなく、ただの運の悪い弱者だ。
      誰もが、群れの中に発生した、何か至らない弱者、サイコロで1を出した弱者に対して、いつもイライラしている。
      群れの足並みが揃わない、外れ個体、群れの足を引っ張る、役に立たない無能な個体、
      そう思えばこそ、ぼくたちはその群れにストレスを感じるように進化してきた。
      そして、それはぼくたちにもう一個のストレス「他者を攻撃するストレス」を忘れさせた。
      その進化、「正義」に、ぼくたちは飲み込まれてしまって、いつか、攻撃し放題になっているだろう。
      だから、もう一度、そのストレス、「正義」によって減免された「他者を攻撃するストレス」を、思い出させたい。
      その忘れていたストレスさえ思い出せば、「人を非難する前に、慎重にその人の状況を見極めよう」と、
      そう考えると思うんです。
      もし許されるなら、そのように動きたいですね。

  27. 薄雪草 より:

    自分の持つ「言語化できない呪いのような何か」を音楽に乗せてはっきりと言う人が世の中にいるという事実が自分にとってすごく衝撃的でした。
    それが僕にとって「Who is the predator?」という曲だったんです。
    外に出て人の声が聞こえると自分のことを嘲笑っているような気がしてどうしようもない殺意に襲われるときがある。
    そんなときにイヤホンをしながらこの曲を聴くことによって何とか正気を保てているような気がします。
    自分とどことなく似ている境遇を持った人が逮捕されたとニュースで聞く度にどこか他人事とは思えすにはいられない。
    今のところ人としての一線を超えずにいられたのは多分かぼちゃさんの音楽があったからだと僕は思っています。

    1. kabotya より:

      ぼくも、まったく同じことを時々思うんですよね。
      ニュースになっている「彼ら」は、最後の一線を越えた「もしかしたらのぼくだ」と。

      自分は、本当に単純な幸運に恵まれて、それは本当に例えるならたまたま道を歩いていたら宝くじ3億円に当たった、みたいな、自分の努力でもなんでもないような、
      些細な、だけど奇跡的な幸運に恵まれて、そういう結果にならなかった。

      でも、彼らにはその幸運はもたらされなかった。
      当たり前ですが、宝くじなんて当たらなかった。
      そう思うと、どうして自分はのうのうと生きていられるんだろうと。
      ちょっとしんどい気持ちになるんですよね。
      周囲の人達がまたニュースサイトのコメントなんかで、「殺すべきだ」「残虐に」「同じ目に合わせてやれ」と、
      その「もしかしたらのぼく」に向かって石を投げている。
      この石が、まさにぼくたちの敵なんだと思うんです。

      ぼくの音楽が、あなたの前にある最後の一線を越えさせずに、あなたを「こちら側」に留める効果があった、というならそれは嬉しいです。
      自分にそんな力があったなら、これほど幸福なことはないです。
      言った通り、ぼくにとってそれは「宝くじを当てた」くらいの奇跡ですから。

      それだけで、音楽を作った意義があっただろうと思うし、
      自分の苦しんだ意味もあっただろうと思うんですよね。
      お互いいやはや、しんどいながらものんびり頑張りましょう。

      ありがとうございます。

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